中臣鎌足の妻とされる。
通常は,鏡王女(かがみのおおきみ)と読ませる。
しかし,鏡王の女(かがみおうのむすめ)と読むのが正しいのではないだろうか?
鏡王とは,龍王すなわち海神王を指す。
中臣鎌足と鏡王女を祭神とする談峯神社には「談峯龍神像」がある。いつの時代のものかは知らないが,まさに竜神。このような形の冠が本当にあったのではないかと思う。
談峯神社
http://www.tanzan.or.jp/
ところで,この神社がある山で,中臣鎌足らによって大化の改新を実行するための談合が行われたとのこと。
いろいろと勉強している間に,「藤原氏が政治権力を握るために古事記・日本書紀の内容を真実とは異なるもののようにしたのだ」という説は完全な誤りだと思うようになった。
古事記・日本書紀に書かれている内容の中には史実と相当異なるものが含まれていることは間違いない。
しかし,そのように史実と異なる内容に編纂されたのは,藤原氏が権力を握るためではなく,救国のためであると考える。内容が史実と異なっていても,高度なセマンチック暗号のような巧妙な仕掛けが施してあり,ちゃんと理解できる人には真実を理解することができるようにうまく構成されていると思う。その解読のための鍵は,当時の人々の頭の中にある「アプリオリ」なのであり,当該文書中には符合化されていないので,当該文書それ自体に含まれる符合をどのように解析・計算しても,その意味内容の全部を解読することはできない。日本国の正史は唐にも献上されるものだろうから,唐の人々には間違って理解され,日本国の上層部には真理が理解できるように極めて上手に構築されたのだろう。かくして,倭国は,「倭」とは別の日本国となった。
さて,当時の世界情勢に対する対応について,2つの政治的立場があり,その対立から大化の改新が起きたと考える。この対立は,唐の真の意図を見抜くことができたかどうかによって異なるし,賄賂や饗応を含め,いかにして唐の高官を買収することができたかによっても異なる。対立する側は,精神論や民族主義的な考え方が強すぎたかもしれない。
中臣鎌足は,死の前に「生きては軍国に務無し」と述べたらしい。
その言葉の解釈も少し異なってくる。
戦時であれば立派な大将軍となっただろう。唐との間で戦争にならないようにすることが真の救国と考え,そのような方策を実行すべく,大化の改新が起きた・・・私は,そのように考える。
藤原鎌足は悪人ではないし,大化の改新によって王統が断絶したわけでもない。連綿として今日まで続いている。
かくして,その前後の時代に,中臣氏らとその宗家である氏族の基本的な国家政策として,120艘もあったはずの外洋航海可能な大型軍船(枯野船)は焼き捨てられ,それによって戦意のないことを中国の王朝に示し,平和的な関係を維持することに成功したと言える。
また,新羅征伐に出発していた軍司令官(聖徳太子の弟・来目皇子)や後任の当麻皇子の妻(舎人皇女)が謎の死を遂げているが,もしかすると烏頭を用いて暗殺されたのかもしれない。
タジマモリは,当時の中国大陸の政治情勢を調べ,また,中国の支配者や高官らに対する懐柔工作をするために派遣されたのだろうと思う。ただ,立派な大義名分が必要なので,徐福が仙薬を求めて蓬莱にわたったとの故事になぞらえ,仙薬である橘を求めて常世(中国)にわたるということにしたのだろうと推測する。タジマモリとは「丹波守」または「丹波神」だと思う。個人名ではないかもしれない。
唐の太宗としては,唐の北方諸族が直接の脅威なのであり,その脅威を排除することなしに国家の安全を確立することができない。だから,その北方諸族の周辺国が北方諸族を支援しないということを約束しさえすれば,周辺国にまで軍事行動を起こさなくても自国の安全を確保することができる。
その北方とは,現在のモンゴルではなく中国東北部を指し,中国東北部は朝鮮半島まで地続きなので,朝鮮半島を含む中国北東地域全域に対する軍事的支配の確立をもって統治の完成とすることができたと解する。高句麗・百済・新羅は,そのために滅ぼされるべき運命にあったと言うべきであり,攻略を容易にするために唐はこれらの国々を争わせて国力を弱めさせていたのだと考えることができる。どの国が勝っても多数の自国兵を失うという犠牲を払わなければならないわけで,戦勝すればするほど経済が疲弊し国力が低下するという経済関係が成立する。
このような関係は現代においても存在していると考える。
例外なくどの国であっても,自国を守るための国防のための軍隊は必要だが,必要以上に軍備を拡張すれば,経済的に疲弊して最終的には滅びる。隋が滅びたのは,国家の歳出に見合う歳入がなく,当てにしていた軍事侵攻による略奪によってもたいした歳入をあげることができなかったことが国家疲弊の最大の原因だったのではないかと思う。短期間で滅びた。
当時の朝廷は,このような国際情勢を冷静に見極め,軍費の支出増加による国家財政の疲弊を抑えながら,とにかく優れた文物だけはどんどん輸入して更に国家を富ませることに邁進していたと言える。ある意味で,当時の朝廷は,現在の経済官僚以上に国家経済というものの本質をよく理解していたのだろうと評価することが可能だ。
一般に,国家が大きくなればなるほど支出が増え,それに見合う税収は伴わないというのが普通だ。支出は増加し続け,収入はそんなに増加しない。へたをすると減少する。加えて,国が大きくなると高官の権限が増大するので,しばしば高官が横領して私的に浪費してしまうといったことが起きる。どんなに立派な国でも,例外なくそういうことが起きる。
モンゴルのように世界最大の帝国を築いた国家もあるが,もちろん長続きしなかった。各地域を子供達に分割支配させた時点で統一帝国は終了していたと考えるべきだろう。中国を統治した元もまた,国費(軍費)の浪費によって衰弱し,滅びた。
徳川家光は,たぶん柳生但馬守の教えにより,秀吉の朝鮮出兵(対明戦争)がいかに国家財政を疲弊させたかを学び,海外進出をせず,必要な文物はどんどん輸入して国家を豊かにするが,基本的には鎖国という政策を採用したのだろう。徳川吉宗も同じだと考える。
明治維新では,そうならなかった。列強が強すぎたからだ。事実上敗戦復興ともいうべき出来事が明治維新だと考える。
そして,その後,鎌足が抑えた「あり方」すなわち民族主義や精神論のようなものが増大することになり・・・
現在のマスコミ等の中にもそういう誤った精神論を重視する勢力は存在する。
遺伝子がなせるわざだと考える。
[追記]
「龍王」については諸説ある。
最も素直な解釈としては,琵琶湖の東岸(現在の近江八幡~野洲~竜王町付近)を支配した豪族であり,その本拠地があったのは現在の竜王町にある鏡神社周辺ということになるだろう。その墳墓は非常に多数の古墳として残されているし,王にふさわしい出土品も既にある。
鏡神社
http://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/genpuku/kagami-jinja.html
問題は,その系譜なのだが,鏡神社の主祭神から考えると「天日槍」と関係の深い土地であることは疑いがない。
ただ,日本書紀における天皇の在位年数を前提にしないと,相当古い時代にやってきた神ということにならない。
現在の多数の説が認めるような本当の在位年数を考えると,皇統を簒奪するようなことは無理だったろうと考えられ,全く別の解釈をする必要がある。
むしろ,落日の新羅から一族を引き連れて日本に亡命した後,海人族の娘と婚姻することにより,日本においても安定した居所を得ることができ,その子孫が竜王町付近に居住することになったが,実質的には外戚である海人族宗家がこの地の本当の支配者だったと考えるのが正しいのだろうと思う。
したがって,「鏡王の女」を考える場合でも,「本当は鏡王とは誰だったのか」を丁寧に検討した上でないと,ちゃんとした答えを出すことはできないと思う。単に日本書紀等にある系譜を形式的になぞっているだけでは全く駄目だ。同じく鏡王の女とされる額田王との関係を考える際でも全く同じ。日本書紀の記述を批判的に検討することができ,かつ,龍人族=海人族の歴史について詳しく考えてきた人にとっては,かなり容易に答えを出せる問題かもしれない。
なお,鏡王は,壬申の乱の際に戦死したと伝えられている(どちらの側の立場で戦ったのかについては不明。)。
この乱もまた,朝鮮半島及び中国との間での外交関係をめぐる立場の争いが真の原因だったのだろうと考える。そして,そのような立場が生ずる原因は言うまでもないことだ。
[追記]
「鏡王女」は正確でないという説がある。「鏡姫王」が本当の名とする。
このことは,下記の書籍で知った。驚きの本だと思う。
池田仁三『画像解析によって解明した古墳墓碑』(青林堂)
この書籍は上下2巻なのだが,「鏡姫王」と「額田姫王」については「下」のほうにある。
この説によると,墓碑にある名が「鏡姫王」なので,談峯神社にある「鏡王女」は間違いということになりそうだ。
ただ,この本を読んでも,「鏡姫王」の親が誰であるのかはわからない。
また,この説に賛成するかどうかは別。
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