下記の記事が出ている。
台湾の馬英九総統、慰安婦問題めぐりフェイスブック上で日本側を批判
産経ニュース: 2014.1.19
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140119/chn14011920550006-n1.htm
第二次世界大戦の終戦後,中国大陸で生まれた人なのに,どうして日本軍のことを「忘れない」ように覚えているのか理解できない。非常に変わった人だと思う。
歴史が覚えている事実の中で日本人が誇るべき事実がいっぱいある。しかし,日本人は過去のことを穿り返したり,意図的に誇ったりしない。人類の歴史は殺戮の歴史でもあるので,言い始めれば双方ともいくらでも非難の口実が出てくる。だから,狭い国土の中で大勢の人間が共存するために,日本人は「水に流して忘れる」という文化を構築した。世界に誇るべき文化だと思う。なぜなら,世界はとても狭くなってしまったからだ。
とはいえ,私は政治家ではないし,一市民に過ぎないので,一人の日本人として指摘したいこともある。
例えば,明治時代に日本が台湾を併合したことは悪いことだったかもしれない。しかし,当時の台湾人民の状況は非常に悲惨だった。
台湾は,日本を含め古代の太平洋諸国~時計回りに南米一帯においてはかなり重要な地域であったかもしれない。最近の遺伝子研究の成果がそのことを示唆している。
けれども,歴史上何度も中国諸王朝から侵略を受け続け,やがてポルトガルやオランダの植民地とされ悲惨な状況を経た後,清朝の属国となり,台湾の人々は清朝に搾取される奴隷のような状況にあった。
初代の台湾総督は人を得ていなかったので失敗した。これは,台湾の人々にお詫びすべきことだと思う。
しかし,事態を重視した日本政府により派遣された児玉源太郎は,台湾の人々のために可能な限り尽力し,台湾の近代産業の土台を構築した。それによって台湾の人々に多数の職ができ,治安が安定することとなった。これは誰も否定できない歴史的事実だと思う。児玉源太郎は,一般に軍人としてのみ知られているが,為政者としても偉大で,私見では,徳というもののある非凡な人物だったと考える。現代の日本にそのような為政者が存在しないことはとても残念なことだ。
変わって,私事になるが,亡き父は,戦時中,台湾に住んでいた。電気関係のエンジニアだったので軍事教練を受けた後,台湾精糖に派遣され,工場の電気関係施設等を管理する仕事をしていた。ところが,爆発事故が発生して片目を喪失し,残った眼も失明寸前だったところを非常に有能な台湾人の医師に助けられ,かろうじて視力を残すことができた。父は死ぬまでその医師には心から感謝していた。そして,塞翁が馬とでも言うべきか,残された視力だけでは小銃の照準を合わせることは無理だということで,兵士として戦場に出ることはなく,終戦まで電気関係のエンジニアとして台湾精糖で勤務する状態が続いた。
終戦後,台湾で独立運動が起きた。父は日本人だったが,台湾人の独立運動家から人望があり,助力してくれと頼まれ独立運動に協力したことがあったらしい。本当のことかどうかは知らないが,独立台湾のために憲法その他の法令を起草するような仕事をする予定だったとか聞いたことがある。父は,語学能力に優れ,中国語や中国の文献等にも精通していた。本当は,詩人として文学で身をたてたいと思っていたそうだ。父は,米沢工専出身で,学生だったときにつくった詩は,その卒業アルバムに掲載・印刷・出版されている。
そのようにして独立運動が盛り上がっていたところ,蒋介石とその軍隊がやってきて,元の台湾住民とりわけ独立運動家をかたっぱしから銃殺して回った。何も武装していない普通の市民なので重武装した職業軍人の前には抵抗する方法など何もない。街路で撃ち殺された人々が数多くあり,その妻子などが遺骸にすがって狂ったように泣き叫ぶ姿が無数に観られたそうだ。
父は,台湾人と誤解されて軍に連行され,処刑寸前までになった。しかし,日本人だと主張したので取調べが行われ,確かに日本人だと認定された。
蒋介石は,父に対し,「中国大陸で共産党軍と戦闘していたときも,それ以前も,中国人は日本人から多くの助力を得たし,日本に対して深い恩義がある。だから,日本人を処刑することはない。しかし,中国の未来は中国人自らが築くべきものだ。だから,日本人は,日本に帰国せよ」と命じ,終戦後ずいぶんと遅くなってから,数冊の書籍だけ持って船に乗り,佐世保に帰国することになった。父は,生前,蒋介石が台湾独立運動をつぶしたことには批判的だったが,蒋介石の人物に関しては非難したことが一度もなかった。
このように,私は,台湾と全く無縁の人間ではない。
しかも,台湾精糖は,後にキューバなどの共産国の安い砂糖に価格競争で負けてしまったことから,国策として蘭の栽培事業に転換をし,見事に成功することができた。台湾政府の政策決定が正しかったのだと言える。国家的な規模での蘭栽培・輸出に成功した例は,非常に珍しいのではないかと思う。
そして,いまこうして私自身が蘭と深く関係を持ちながら生きていることには,何らかの因縁のようなものを感じる。
台湾の政治は難しい。朝鮮半島も難しいが,台湾も難しいのだ。
しかし,過去のことをほじくり,罵り合っていたのではいつまでたっても先に進めない。殺し合いが繰り返されるだけだ。
私は,一人の日本人として,「忘れて水に流す」という文化を世界に広めるべきだと考えている。
恨みをひきずるだけでは自滅するしかないかもしれない。
(余談)
海外の立法例を探してみたら,あった。
Pact of Forgetting (el pacto de olvido)
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