『梁書』にある倭の出自
『梁書』の倭国伝によると,「倭」は,「太伯の後裔」だと自称していたらしい。
『梁書』倭国伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun4-ryosho.htm
魏略(逸文5) 翰苑 卷三十
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gimonfolda/gimonn08.htm
「太伯」とは,呂尚(太公望)を指す。
呂尚の出自については謎が多く,『史記』でも断定を避け,複数の異なる伝説を収録するのにとどめている。
その伝説の1つに,呂尚は東方の海岸地帯に住んでいたというものがある。この海岸地帯とは「呉」のあたりだと解する見解が多数だが,私は山東省のあたりではないかと思っている(ここでもまた,当時の海水面が現在よりも10メートル以上高く,したがって海岸線が現在よりもずっと内陸部にあり,かつ,気候区分も異なっていたという事実を念頭に置いて考えるべきだ。日本国では縄文時代~弥生時代の海岸線の推定が結構進んでいるけれども,日本だけがそのような状況にあったとは到底考えられず,中国でも同じだったと推定できるので,現在の海抜10メートル未満の地点は全て海として地図を塗りつぶしてから考えてみると様々なヒントがわいてくる。)。
他方,呂尚は,おそらく,本草(薬草)の知識に長け,それを用いた呪術や医療等に優れた部族を配下にもつ氏族集団であり,それゆえに周の知遇を受けたのだろうと推測する。「太公望」として釣の神様のように尊敬されているのは,それゆえだろうと思う。単なる漁民やスポーツフィッシングのようなものとして考えるのは明らかに間違いで,「本草」の中に含まれる薬物原料としての魚類を非常に巧みに扱うことができたということを意味するのだろう。
ところで,『神農本草経』を読むと,同書で触れている本草の原産地は主として北魏の領域にあったと解され,特に現在の山東省一帯の地域のもつ意味は重要ではないかと思う。
孔子と魯の国とは密接な関係にある。その魯の国は山東半島に近く,その山東半島にある臨淄(淄博)周辺に「朱崖」という地名が点々と残存している。魯の国には古い「礼」が残されていたという。この「礼」に基づく儀式や祭礼等のために各種薬草が用いられたことはほぼ間違いない。ここでいう薬草とは,中国語でいう「本草」のことを指し,植物である草木だけではなく,動物,魚類,鉱物等も含まれる。「薬草」や「本草」という名前だけで植物に限定されると即断してはならない。その「本草」における鉱物には,もちろん水銀(朱)も含まれる。
あくまでも空想に過ぎないが,呂尚の氏族集団と徐福の氏族集団とは同一であるか,または,極めて近い関係にあり,そして,彼らの一部が現在の朝鮮半島や済州島に移住して「倭人」となり,更にその一部が南下して日本国に移住したと推測するのが妥当なのではないかと思う。秦氏が中国系であることはほぼ間違いがないので,もしかすると秦氏がそれに該当するのではないかと思う。すなわち,秦氏は奴国王であったかもしれない。北九州や山陰地方日本海岸あたりに上陸した渡来人達は,その後,弥生人として縄文人をあっという間に圧倒してしまうことになる。縄文人は赤色の色素として酸化鉄(べんがら)を主に用いていたが,弥生人は硫化水銀(朱,丹,辰砂)を主に用いていたことが知られている。
彼らがシンボルとして用いた八本の旗は,おそらく朱色だったのだろうと空想している。ちなみに,「八」がシンボル的な意味をもつことは古今世界各地に存在する現象だが,七支刀も七枝のように見えて実は柄を含めると八になる。大元の部分は枝とならないので大将の軍旗は柄であり,支族の軍旗が七本であり,それを象徴的に刀剣として鋳込むと七支刀になるという解釈だ(石上神宮(もともとは御祚神宮または御蘇神宮または御磯神宮または御機神宮または御勢神宮または伊勢神宮だったかもしれない。)の「六叉の鉾」では,絵が氏族の主である王(女性の巫女であることもあり得る。いずれの場合でも,武官ではなく神そのものである。幾つかの例外を除き,王は自ら軍を統制せず,武官である将軍に任せていたと考えられる。このことが少彦名の神を理解する上でも重要だと思われる。その伝統は,現在でも御神輿の中の隠された御神体とその御神輿をかつぐための労力を提供する大勢の屈強な若者という関係で残されている。),中央の幹の部分が王の軍事組織の頂点である将軍の属する支族,それに六支族が従属するという解釈になる。柄の部分は朽ちて失われてしまっているが,当時は,金銀で装飾され絢爛たる光彩を放っていたのに違いない。)。
ところで,古記録によれば,ずっと古い周の時代に「倭」が薬草を皇帝に献上したとのことだ。
この「倭」について詳しく論じている研究者はあまりいないように思う。あくまでも机上の理屈としては,いくつかの解釈が可能だろう。
1)中国に居住いた人々のことであり,主に沿岸部に住んでいた。短距離の陸路により薬草を献上した。この場合,呂尚の出身氏族と同一または非常に近い関係のある氏族である可能性を肯定できる。
2)朝鮮半島に居住していた人々のことであり,長距離の海路または陸路で薬草を献上した。
3)日本国に住んでいた人々のことであり,非常に長距離の海路で薬草を献上した。この場合,宝来国(須弥山)を日本国と比定することができるかもしれない。
4)もとは1のように中国沿岸部に住んでいたが,周が滅びる前後の戦乱の時代,一族全部が朝鮮半島や日本国に移住したため,中国内からは倭人がいなくなってしまった。この場合,本来の倭人は戦乱や侵略を好まない平和的な人々であったという解釈が可能となる。
以上のほか,様々な仮説が考えられるだろう。
こういうことをいろいろと考えていると,聖徳太子の17条憲法も,本当は仏教の教えの直訳なのではなく,もっと古い時代にルーツをもつものなのだけれども,当時の世界情勢や国内の政治情勢などの関係から,外形上,仏教的な装いでまとめられたものなのではないかと考えてしまう。
「和(倭)をもって尊しとなす」
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