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2013年12月30日 (月曜日)

百済三書

『百済記』,『百済新撰』及び『百済本記』を併せて百済三書というらしい。

通説によれば,現在では失われてしまったということになっている。しかし,私は,日本国内のどこかに写本(完本)が存在しているだろうと思っている。

百済三書の内容は,逸文として『日本書紀』の中に散見される。

巻一九欽明天皇では,当時における百済・新羅・高句麗・伽耶・日本の間の国際関係がかなり具体的に書いてあり,『百済本記』が何度も引用されている。

百済滅亡時に日本国に亡命した百済の王族や高官などがそうした書物を大量にもってきたのだろう。あるいは,それ以前の時代に日本国の天皇に献上されたものかもしれない。厳しい国際情勢の中にあって百済の正当性を示すためにこれらの書物が編纂されたことは疑いなく,唐や日本国に写本を献上することによって自らの正当性を訴えるということは十分あり得たことだと思う。

散逸したとされている『神農本草教』が日本国の仁和寺に保管されており,比較的最近,それを参考にしながら,中国でも『神農本草教』の復元が行われ,出版されたのだが,これも似たような事例ということができるかもしれない。

百済三書は,復元可能なものかもしれないと思う。

さて,欽明天皇の時代,朝鮮半島~満州付近の情勢はめまぐるしく変化していたようだ。現代における固定的な首都という物的装置をもった「国家」のようなものを考えるとわかりにく部分が多いけれども,「国家」それ自体が「全体として移動することが可能な存在」だという前提で読むと,非常にわかりやすい。

欽明天皇二三年春正月のところには,任那滅亡の状況が描かれており,新羅を「西羌」と表現している。蛮族として侮蔑する趣旨であろうと思われるが,典拠は中国の史書にもあり,要するに北方遊牧民のようなものだとの認識があったものと考えられる。極悪非道・暴虐の限りを尽くしたことが描かれておりまさに悪魔の所業のように読める。

しかし,任那滅亡に至るまでの記述の中で,伽耶国内ではその構成国間で離反・融合などが繰り返されていたことが示されている。そのことから,残虐の限りを尽くしたのは,新羅だけではなく,新羅に寝返った他の伽耶国構成国の一部だった可能性も否定できないのではないかと思う(ただし,日本国の朝廷としては,その事実を知っていたとしても,将来の国際情勢の変化等を慎重に考慮した上で,あえて伏せ,新羅の単独行為として表現したとも考えられる。あるいは,『日本書紀』編纂時点において,裏切り者の子孫が日本国内の有力豪族として存在しており,そのことを配慮して曖昧な表現にしたとも考えられる。)。

一般に,もともと様々な民族が混在する社会として構成されていた地域だと推定される。現代において存在しているような主権国家や国際関係を前提にものごとを考えていては駄目なので,なかなか難しい。現代においてさえ,アフリカ諸国の悲惨な内戦等を普通の「国家」という観点で考えたのでは駄目で,移動可能な部族の集合体として「国」というものを理解しないといけない。

ところが,新羅滅亡時には,同じことを新羅自身が味わっている。

新羅滅亡の際には,大量の難民が日本国に押し寄せた。日本国に逃れることができたのは,日本国内にコネのある親日的な部族だけだったろうと推定される。朝鮮半島に残っていた新羅民は,一人残らず惨殺されて悲惨な最後を迎えたことになっているから,まさに因果応報というものだろう。韓国の歴史学者の中には新羅からの継続性を重視する者もいる。そのような者に限って極端に反日的だ。しかし,新羅の極悪非道を承継した種族を自認するようなものだから,やめたほうがよいと考える。自己矛盾の極みと言える。

その後の朝鮮半島では,モンゴル系諸族が進出して今日に至っている。したがって,倭人からはじまる古代朝鮮半島の国家史は新羅滅亡によって終わったのであり,それ以降の時代における朝鮮半島の国家史との間には完全な断絶があると断定せざるを得ない。

ただし,新羅滅亡時に朝鮮半島に居住していた者が文字通り一人残らず死滅したと考えることはできない。やはり,日本国を裏切って新羅についた旧伽耶諸国構成国の中には唐に寝返ったところが多数あったはずだ。そうやって時代の情勢にすばやく反応し,常に強国になびくということで生き延びてきた種族が存在するはずだ。

同じことは,高麗と元との関係でもみられる。基本的には同族なので,そうなりやすかったのだろう。

そういうあたりから考えてみると,もし現代の日本国が極めて強大な国家になった場合,当然,強大な日本国になびくことになるだろう。そうなると最も脅威を感ずるのは,他ならぬ中国に違いない。仮想敵国と国境を接することなく,上手に緩衝地帯を設けながら国際関係をマネジメントすることができなくなる。

ところで,欽明天皇二三年秋七月のところには,新羅の使者が日本国にやってきたが,その使者は日本国に到着してから新羅により任那が滅亡させられたとの事実を初めて知り,新羅が日本国に背いたことを恥じ,新羅に帰国せず,日本国にとどまったとある。真相は,その使者が新羅に帰国すれば親日派の者として粛清されてしまう可能性を考慮し,日本国が新羅からかくまってやったということだったのではないかと想像する。

それにしても,任那滅亡から半年以上経過した時点の事柄になるので,新羅から日本国に至るためには半年以上の日数を要したということになる(新羅による任那攻撃開始前の時点で新羅を出発したとすればおよそ1年くらいかかる行程だったかもしれない。)。

これはかなり奇妙なことだと思う。

いろいろと考えてみると,新羅もまた多民族国家であり併合した諸国(諸部族)の中には親日的なところもあっただろうから,もしかすると,任那の滅亡後に,そうした親日派の部族が日本国との関係を完全に断ち切らないようにするため,やってきたということなのかもしれない。

津田左右吉だけではなく,『日本書紀』の信頼性を疑問視する学者は,多いというよりもむしろ圧倒的多数なのではないかと思う。

しかし,火のないところに煙はたたない。

もちろん,朝廷にとって不都合な出来事については改ざんや隠滅もあったはずだ。しかし,それだからと言って全部が虚偽であるとは言えない。

学者たる者は,虚偽である部分と真実である部分とを明確に分けて考察すべきだ。少なくとも,そのように考察しようとする努力をすべきだと思う。

自戒の念をこめて。

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