聖書にあるイエス・キリストの言葉「Elahi, Elahi, lema shabaqtani?」は古代シリア語(アッシリア語)?
下記の記事が出ている。
Race to save the language of Jesus: Aramaic in danger of becoming extinct as number of speakers of ancient tongue plummets
Daily Mail: 25 January, 2013
http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2268204/Race-save-language-Jesus-Aramaic-danger-extinct-number-speakers-ancient-tongue-plummets.html
新約聖書は非常に古い書物の一つで,もとはギリシア語で書かれていたということになっている。しかし,記録のために用いられた符号体系がギリシア語であるということは,聖書に登場する人々の本来の原語が何であるのかを意味することにならない。源氏物語の英訳は,源氏物語の登場人物が英語を話したということの証明にならないのと同じことだ。
一般的には,旧約聖書と同様に当時のユダヤの人々が口にした言葉と同じだろうと考えられているが,正確なことはよくわかっていない。
言語の考古学のようなものが盛んになってきているが,この記事にある研究もその一種だと考えることができる。
この記事によれば,アッシリア(古代シリア)の言語は,現在では失われてしまっているのだけれども,商人達を通じて世界中に拡散し,現在でもその断片が残されているとのことだ。アッシリアは非常に強大な国家であり,中近東を広く支配していたので,アッシリアの公用語が世界に広がったということ,そして,アッシリア滅亡後も言語の一部が現代語に変化しつつ各地に残されたということは十分に考えられる。
さて,現代の電子化された社会では,ビッグデータだ何だと騒いでいるが,記録されているのは,要するに符号だけだ。実は符号だけでは何の意味もない。
アッシリアの王宮遺跡からは大量の粘土板文書が発掘された。その多くは徴税関係等の行政文書であったらしいということが今ではわかっている。しかし,発掘当時には何を記録した文書であるのかがすぐにはわからなかった。楔形文字の形は認識できるけれども,その意味がわからなかったからだ。
電子データがどれだけ膨大に蓄積されても全く同じことが起きる。それは,単なる電磁的な状態が示されているのに過ぎないからだ。フォントデータとのリンクが失われると,そもそもどのような符号であるのかを人間の側で認識することさえ不可能となってしまう。それくらいはかないものであり,古代の楔形文字を記録した粘土板よりも弱い。
一般に,単なる符号を意味のあるものとして機能させているのは,符号そのものの機能なのではなく,実は人間の脳の側での一方的な解釈に過ぎないのであり,意味集合と符号とをリンクさせるための辞書のようなものは常に解釈者の側にあるのだということ,それゆえ,「意味」は常に拡散するベクトルをもち一定しないということを忘れてはならない。
それと同時に,意味を固定した場合,シンボルとしての符号が異なっていてもリンクを構築することによって翻訳が可能となる。言語とはそうした相互作用の中で成立している。
これらもまたフィードバックの一種であり,サイバネティクスの一部を構成している。
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(余談)
若い頃,オーケストラの一員として,J.S.バッハのマタイ受難曲(BWV 244)の全曲演奏に加わったことがある。
大バッハが作曲した宗教曲の中でも,ロ短調ミサ曲やクリスマスオラトリオ等と並んで格別に優れた傑作のひとつだと思う。私は,個人的には第1曲が大好きなのだが,合唱団の一員としてその演奏会に参加した友人は終局が好きだと言っていたような記憶がある。私が第1曲を好きなのは,音楽作品として極めて優れており,イエス・キリストの運命を示唆するとてもドラマチックな効果をこれ以上見事に示すことができている作品を他に見出すことができないということだけではなく,楽譜の譜面それ自体が,十字架を背負い,鞭打たれながらよろよろと坂を上っていくイエス・キリストの姿を5線譜を用いて2次元的に表現した画像作品(視覚によって意味を知ることのできる作品)の一種となっており,その意味で数学的に極めて精緻に計算された作品だからだ。そこには感性と知性とのこれ以上にないというレベルまで完成された融合がある。だからこそ,大バッハは天才の一人だと認識することができる。これ以上優れた作品はこれまで目にしたことがない。
そういうわけで,マタイ受難曲は,今でも私の忘れらない楽曲の一つとなっている。
そして,マタイ受難曲中にある「Elahi, Elahi, lema shabaqtani?」の部分(第61曲)の静寂もまた,同じだ。
この曲では,エヴァンゲリストの力量と音楽性が演奏結果を大きく左右してしまうのはそのためだ。エヴァンゲリストは,イエスの「Elahi, Elahi, lema shabaqtani?」に続けて,「Das ist: Mein Gott, mein Gott, warum hast du mich verlassen?」とドイツ語で説明する。この説明部分をどのように歌うかによって,聖書の言葉を誰に対してどのように扱っているのかという演奏家の宗教観や思想のようなものが表面に出てくる。そして,そのことによって演奏結果がだいぶ異なってしまうことになるのだ。
おそらく,大バッハが教会で実際に演奏した際には,教会に集まってくる人々のために演奏した。彼らはドイツ語しかわからない。だから,現在のコンサートホールにおける芸術的演奏とは相当異なったものであった可能性がある。
それは,メンデルスゾーンがこの曲を発掘して再演した時のものとも相当異なっていただろうと想像される。
そして,その再演を演奏会場で聴いていた大バッハの孫の心の中に浮かんだであろう祖父の演奏する姿もまた異なったものだったろう・・・などと想像してみることがある。
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