妙なロジック
どんな学問領域においても学説上の対立・論争等が生ずることがある。
学問・思想は常に自由なので,こうした論争は常に生ずる。
ただし,人間のキャパが限られているため,論争それ自体が実は(論理的には)成立していない場合や,第三者が論争だと錯覚・誤解することも生じ得る。このような場合には,論争が存在しないのにもかかわらず,論争が存在すると錯覚した学者等の講義を受講した学生らも論争が存在すると信じ込み,架空の学説論争がどんどん増幅されてしまうことになる。
他方,論争それ自体は,学問の進化や改善を全く保証していないのにも係らず,最新の学説が最も正しいと迂闊に信じてしまう馬鹿者もある。人間のキャパに限界がある以上,そのような馬鹿者の出現を防止する手段はない。
例えば,A説→B説(反A説)→C説(反B説)と歴史的な出来事が積み重ねられてきた場合を仮定してみると,C説がA説と同じ説である可能性(B説に対する単なる反論の場合など)とそうでない可能性(A説でもB説でもない新説である場合など)とが含まれることは誰でもすぐに理解できることだ。この場合,歴史的に後に出てきたB説及びC説がA説よりも優れているという保証は一切ない。最悪の場合,B説及びC説の論者が頭脳明晰でないためにA説を誤解し,勝手に独り相撲をとっている場合があり得る。しかし,A説→B説→C説という歴史的流れを観察している第三者(法学説史を研究対象とする研究者など)の能力が著しく劣っている場合,安易に,A説及びB説が否定されC説が最も優れた説として登場したと認識・理解してしまうことがある。これを「似非進化論」と言う。
私は,学説上の争いという歴史的出来事については,懐疑的とならざるを得ないことが多い。論争とされている歴史的出来事を論理学的に正確に解析してみると,実は論理が全くかみ合っていないといった事例があまりにも多すぎるからだ。要するに,当の本人は議論しているつもりだったのかもしれないが,客観的にはお互いに「言いっぱなし」といった感じになってしまっているのだ。
結局,ロジックそれ自体を率直に考察すべきで,自分なりの価値観に従い,その当否を考えるしかない。
このような点について,安易な論文等が増えているように思うので,ちょっと書いてみたくなった。
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