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2012年12月23日 (日曜日)

Neil Netanel教授(UCLA)の講演を聴いてきた

昨日,Neil W. Netanel教授(UCLA, US)の講演があったので聴いてきた。

演題は,「Copyright, Fair Use, and the First Amendment After Golan v. Holder」というものだった。

内容的には全て既に熟知していることばかりだったので新味はなかったが,どのレベルであればUCLAの教授の仕事をこなすことができるのかを理解することができ,少し参考になった。

さて,私なりに考えてみると,著作物も「表現物」の一種であり,著作物を著作し公表することは,著作者の「表現の自由」の一部として存在しているわけなので,問題の本質は,著作者の表現の自由及びそれから派生する経済的利益の独占権をどの範囲で認めるべきかという政策論に関する基本姿勢のいかんによって全てが決定されるのではないかと思う。

その意味では,この種の問題は,法学の一部であるというよりは,経済学や政治学の一部なのではないかとも考えられる。

一般に,経済的利益を全て無視すれば,経済的利益を得ることを目的として表現しようとするタイプの者のインセンティブは喪失してしまうだろう。

他方,特定の著作物の著作者の経済的利益を完全なものとしてしまうと,他人の著作物の構成要素を取り入れながら新たな著作物を創作することが不可能となってしまうことから,文化は窒息する。おそらく,現在著作権があるものとされている著作物の圧倒的多くが,実際には先人の著作物の構成要素の一部を取り込んでしまっているため,現在著作権があるものとされている著作物のほぼ全部が違法物だということにならざるを得ないだろう。ただ,世界に完璧なデータベースが存在しないため,その検査ができないというだけのことに過ぎない。

音楽作品の世界では,音楽著作物の管理団体がほぼ完璧なデータベースを既に構築している。私は,公開すべきだろうと思っている。そのデータベースの中でマッチングをやってみると,9割以上(もしかすると大半)の音楽著作物に創作性など存在しないという数学的な検証が可能になると信じている。つまり,厳密に考えると,真の著作者などほとんどいないのだ。

このことは「ラップ」を想像してみればわかる。歌詞は別として,メロディはほぼ同じだ(または存在しない。)。おそらく,現代に近い時代の作品としては,アストラッド・ジルベルトが唄った「ワンノートサンバ」の焼き直しということになるのだろう。ワンノートサンバ以前にも,同様にワンノートで書かれた楽曲が多数存在するに違いないが,私は音楽史の専門家ではないので,よくわからない。

こういうこともあるものだから,あまり厳格に考えることはせず,アバウトにゆとりをもって構えることが大事だ。

問題とすべきは,著作権法というよりは不正競争防止法に違反するような行為が主体となるべきだろう。

ちなみに,このことは小説でも同じだ。各種の賞の応募作品を全てデータベース化し公開すれば,その中にどれだけ剽窃物が入っているかを理解することが可能であると同時に,かなり著名な作家が応募作品をどれだけパクっているかを理解することも可能となる。賞の中にはまともなものもあるけれども,中には罠であるようなものもある。

著名作家の作品の売上で主に収入を得ている大規模出版社等は,今後,生き残る可能性が少ない。パクられ怒った応募者がネットに原稿を公表してしまうことがどんどん出てくるだろうし,自信のある者はAmazonなどから電子出版してしまうことだろう。そうなると,剽窃の風評を怖れる著名作家としては危ないことをすることができなくなり,ネタが尽きてしまう結果,筆を折ることになるかもしれない。

私自身は,芸術で身をたてているわけではないし,その才能もない。

コツコツと調べ,考え,その上で他人が既に研究していない分野であれば論文を書くということを続けている。既に先人がやり尽くした領域であれば,自分の調査・研究成果として自分の脳内にだけ納め,論文として公表することはしない。新規な研究成果としての意味が全くないからだ。

そうやって自分の創作性を確保するようにしている。

こういうことを言うと,法学の分野では「開拓されていない分野が存在しない」といって嘆く人もいる。

私は,そういう人は「著しい勉強不足だ」と心の中で思っている。

所与を疑えば,本当は全然わからないことばかりだ。所与を所与として墨守する限り,学問は成立しない。指導教授の「教え」を守ることだけに全精力を費やすタイプの人もいるが,それは宗教の一種のようなものであり,学問でも何でもない。

そのような前提で,「狸狢事件判決」という使い古された素材を,従来とは全く異なる研究領域の素材として使い考察してみた結果,やはり,よくわからないことのほうが多いということを正しく理解できたし,従来の普通の視点のほうが間違っているのではないかとも思った。その考察結果と問題提起と若干の提言をまとめ,論文を書いて公表してみた。

従来,通説や判例とされてきたことの多くについて,完全な見直し作業が必要だと思っている。それらが所与としているところのものを疑えば,全く根拠レスだということを即座に理解することができるものが少なくない。


[このブログ内の関連記事]

 スペイン:最近のポップスは全部同じ(=著作物としての創作性がない)との研究結果
 http://cyberlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-33be.html

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