人生は1回だけ(Life is one time)
Privacy conferenceでヨルダニス先生という方と知り合った。
ギリシアの生まれで,現在はスウェーデンの大学教授であり,ネットの心理学等を研究しているが,基本的には哲学者なのではないかと思う。
私は,人生で一度でよいからキクラデス諸島に行ってみたいと思っていたので,そのように言うと是非ともそうしろと勧められた。
しかし,先立つものの関係もあるけれども,とても忙しくて時間がない。
「ヴァケイションの時間がない」と言うと,「Life is one time」というのが返答だった。
そのとおりだと思う。
1回こっきりの人生のとても大事な時間を何のために使うべきか?
それが問題だ。
ちなみに,私は,ヨルダニス先生のことを(敬意をこめて)「ソクラテス先生」と呼んでいたので,ソクラテスの生きた意味についても話題になることがあった。
ヨルダニス先生のご意見では,「神話を壊してしまったので死ぬことになったのだ」とのことだ。
私も同感だ。
現実に,現在の私の研究の主たる対象は「所与」にある。つまり,疑問の対象にしている。
仮に「所与」を現代の神話に見立てるとすれば,かなり危険なことをしているのかもしれない。
しかし,所与を確定的なものと仮定し,それを基盤に公理のようなものを勝手に構想し,本質的に観念しか存在しないのにあたかもそれを実体であるかの如く錯覚したままで,演繹法的に法解釈論を展開するような主流派のやり方には本当に困惑している。
常に事実を直視し,そこから帰納法的に考え,その都度,法則の存在を知ろうとする努力を継続することが大事だ。
事実を直視せず,どこにも何らの根拠もない不思議な自信だけで観念論をふりまわし続ける限り,法学に未来はない。
「自分だけは例外だ」という全く何の根拠もない自信は捨て去るべきだろう。
自分もまた環境の中の一要素に過ぎない。その点では,全ての人間が皆平等だと言うしかない。自分だけが例外であることなどあり得ない。
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(余談)
スウェーデンの大学で研究をしている若い女性も来日していた。
私は,懇親会の会場でたまたまヨルダニス先生と一緒にいると,「クサンチッペ」と呼んでからかったりしていたのだが,本人は気に入らない様子。(笑)
そこで,「なら,サッフォーならどうだ」とさらにふざけたりしていたら,ヨルダニス先生とサッフォーのことについても結構長く会話をすることができた。
サッフォーがとてつもなく優れた人物であったことについては全く意見の相違がなかった。とても有意義だった。
プライバシーの会議のはずなのに,こういう会話ができたことには天の恵みのようなものを感じる。
「法律制度」は,何だかんだ言ってもやはり社会のツールのようなもので,本質的にプラクティカルなものとならざるを得ない。
しかし,そのツールは,様々な理念を背景として成立している。
その理念は,もちろん固定的なものではなく,時代の変化や社会の相違によって異なる。
そこらへんをしっかりと帰納法的に理解することが重要で,人類がこの世に誕生して以来,世界には何も変化がないという前提で固定的に観念論をぶつのでは全く意味がないと思っている。
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(余談2)
会議の日程が全部終わり,大学まで徒歩で戻る道すがら,その女性とヨルダニス先生の発表について話題となった。
彼女は,会場の「ウケ」がイマイチだったと不満のご様子。
私は,そう思わなかったのだが,とりあえず「ハイブロー過ぎたんじゃないの?」と自分の感想を言った。
彼女は,ちょっと理解できなかったようだ。
そこで,「人間と石ころを同じレベルの存在だと考えるだけの知力をもっているかどうかの差によって評価が異なるんじゃないだろうか?」,「普通は,人間だけは万物の中で特別な存在だと思っている人が多いけれど,それは全く何の根拠もないもので,根拠のない自信の一種のようなものだと思う」と続けた。
何となく納得してくれた様子だったのだが・・・よくわからない。
要点はこうだ。
ヨルダニス先生の見解によれば,「生きているというだけで他人のプライバシーを侵害することになるし,それはお互い同じことだ」ということになる。
私もそう思う。
現に,法科大学院の授業では,「無」から考えはじめたほうがわかりやすいと説明しているし,「生まれ,生きている」というだけで侵害をしていることになるとも説明している。そして,「権利」とは,侵害を正当化するための説明の一種のようなものに過ぎない。
このような意見が正当であることは,本日のカナダとオーストラリアの研究者からの発表によっても裏付けられる。
一般に,人は,自分のプライバシーは守られるべきだと考えることが多いのだけれど,それと同時に,他人のプライバシーを侵害することについてはいたって鈍感であり,むしろ権利だとさえ考える人が少なくない。カナダとオーストラリアの研究者らは,このような心理現象を「パラドックス」だと表現していた。
私は,パラドックスだとは思っていない。
トマス・ホッブズに戻して考えてみると,むしろ当然のことに属するのではないだろうか?
物体は,物体として存在しているということだけで,その物体が占める空間の一部をゆがめてしまうという宿命を負っているものだ。
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