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2012年8月16日 (木曜日)

Electronic Technology and Civil Procedure

Amazonに注文していた下記の書籍が届いた。

 Electronic Technology and Civil Procedure - New Paths to Justice from Around the World (Ius Gentium: Comparative Perspectives on Law and Justice)
 Miklos Kengyel, Zoltan Nemessanyi (ed.)
 Springer-Verlag (2012/7/31)
 ISBN-13: 978-9400740716

まだざっと読んでみただけで精読していないが,とても良い本だと思う。

特に Part II. Specific Application of Electronic Technology Application to Court Proceedings: Ssearvice and Other Application of Communication Technology Issue に含まれている論文を興味深く読んだ。実務的にもかなり有用な文献だと思う。

法学理論研究者及び実務家のどちらにとっても必備・必読の一冊ではなかろうか。

ところで,同種の書籍について英文で寄稿しないかとのお誘いを何度か受けていたのだが,ここ数年いろいろと厳しい状況が続いていた。予想外の災難が次々と降りかかってきたことに主な原因があるのだが,とりわけ,昨年春にちょっと重病になってしまった後,東日本大震災と福島第一原発事故があったことが大きい。それらの出来事が起きた直後には,一時は死を覚悟したくらいで,それこそ論文起案どころの状態ではなくなってしまった。公私とも絶望的な状況の下で,よく今日まで生きてこられたものだと自分でも驚く。

まだまだ問題が解消されたわけではない。

しかし,がんばって体勢を立て直した上で,とりあえず日本語の論文等を書き,そして,英語の論文起案を再開したいと思っている。

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コメント

canaさん

傲慢になることを怖れ,日々勉強を重ねなければならないという点では,大学生であれ大学教授であれ全く同等です。大学教授は少し長く生きているし,少し多く知識を獲得していますから,学生よりも一見優れているように見える場合がありますが,「本当は何もわかっていないかもしれない」という点では全く対等なんですよ。(笑)

だから,謙虚さが必要で,日々自省しながら勉強を続けているわけです。

このブログは,私の自分自身の勉強の過程で見つけたリソースなどの個人的なメモであり,そのメモに自分の感想めいたことを書き足したものです。本来は私的なメモに過ぎないものなんですが,人生に許された時間には限りがあり,研究すべきテーマ全てについて私が研究を尽くすなんてことは絶対に無理なことなので,あえてこの私的なメモを公開し,それからヒントを得てきちんと研究してくれる人が1人でも2人でも出てくるのを期待しているといった感じです。

また,このブログはもともとは法科大学院の学生との間の会話のために設置したものでした。みな優秀な学生ばかりでした。その学生達が卒業してしまい,必要性がなくなったので,しばらく放置していたのですが,古い記事の中で学生の個人情報が推測できてしまいそうなものを全て削除した上で,これをベースに公開メモとして再利用することにしたというのがこのブログの歴史のはじまりです。

ところで,「常識」は非常に難しい感覚を伴うものです。

例えば,「温故知新」は誰でも知っています。しかし,もともと論語にあるものだという知識をもっている人はそんなに多くないかもしれません。まして,その原文を読んだことがある人はもっと少ないでしょう。大概の人は,高校などで習ったりした意味が正しい意味だと信じ,それを常識だと思って暮らしています。

しかし,ここで原典にあたってみると,そうでもないということを理解することができます。

原文では,「子曰 温故而知新 可以爲師矣」となっています。この最後の部分は教えてもらうことが少ないのでほとんど知られていません。読み下すと,「もって師たるべし」となります。すると,全体として,常識的に理解されているとこととはかなり意味の異なるものであることを認識することができます。

そこから先は,解釈が分かれます。古今,様々な漢学者が解釈のための努力を尽くしてきました。そして,解釈した結果を書籍等に記述してきました。しかし,それらはすべて学者が理解した内容を符号化しただけのものであり,孔子(又はその教えを記述した誰か)が意図したものと同一であるという保証などどこにもないのです。だから,現在でも異なる解釈は可能であり,それゆえに論語学が現在でも成立可能なんです。

ここらへんは,機械に対して命令をするための言語体系であるプログラム言語の世界とは全く異なる自然言語の特殊性そのものとでもいうべきものに由来するものです。

さて,canaさんは,温故知新だけではなくそれ以外のことについてもいっぱい学び,覚え,そして厳しい受験競争に打ち勝って大学に入学できたのだろうと想像します。それはそれでとても素晴らしいことです。明治大学法学部は,一般入試としてはそう簡単に合格できる大学ではありません。

けれど,高校生までに覚えた一般常識的なことは,一般人として生きていくために必要な最低限のことだということを理解してください。

大学での勉強は,半分以上が専門的な内容となっています。高校の教科書を書く著者は,教科書の中に最先端の内容を盛り込むことが自由自在にできるわけではないので,ずいぶんと古い通説(現在では否定されている説を含む。)を前提に記述がなされていることがあります。けれども,どの大学でも,最も優れた教授が提供している授業内容は最先端のものです。ですから,高校までに理解した意味内容とは異なるものとして「語」が用いられていることがしばしばあります。

また,同一の「語」が学問上又は社会内のカテゴリーの相違に応じて異なる意味をもつものとして使われていることもしばしばあります。

だから,その「語」がどういう意味をもっているのかを常に再検討しながら考察を進めないと,大失敗をしてしまうことがあります。

加えて,「誤解」ということがあります。この私にももちろんあります。典拠を調べるという作業は,少しでも「誤解」を少なくするという機能をもっていることは否定できないと思います。「常識」だと思って手を抜かないで,むしろ「常識」だと思っていることこそしっかりと調べ直すという姿勢でやっていれば,長年の勉強の蓄積の末に,きっと良いことが待っているでしょう。

勉強するにも体力が必要です。体力が失われると集中力も失われます。ですから,健康に気をつけながら,残りの大学生活の中で,いろんなことを学び考えてください。特に社会に出たら絶対に勉強しそうにないことを中心に勉強することが,大事です。そうした現実の社会生活とは関係のなさそうなことの中には,実はずっとあとになってから,徐々に自分の中で熟成し,実生活において役にたつものがたくさんあります。

よき大学生活でありますように。

投稿: 夏井高人 | 2012年8月18日 (土曜日) 11時40分

夏井教授

夏井教授が仰る「ただし,客観的には限定的な意味で特定の語を用いていることになるのに主観的には普遍的なものだと勝手に思い込んでいるような場合,何らかの要素によって限定しなければいけないという必要性を自覚することができません。」という部分の意味が今よくわかりました。きっと私が教えていただいた教授もこのような意味で定義又は語について仰っていたのかもしれません。

私は2年間とんでもない勘違いをしてレポートを作成していたのですね。とても恥ずかしくてなりません。今後はもっと勉強を重ね精進していきたいと思います。

本当にありがとうございました。勉強になりました。

投稿: cana | 2012年8月18日 (土曜日) 11時03分

canaさん

論文やレポートのテーマや文脈によって異なるので,「制度」や「条約」といったありふれた語について(どんな場合でも常に)出典等の表記が必要ないという見解は100パーセント完全に誤りです。

例えば,N教授の「制度」論を論ずるといった場合,N教授が定義している意味での「制度」という概念について論じているのであり,一般用語としての「制度」について論じているわけではありません。また,例えば,通説・判例における「条約」の理解が誤りであると批判するような文脈の中では,誰が述べている(または使っている)「条約」をターゲットにしているのかを明確にしなければ,そもそも批判が成立しないことになります。ここでもまた一般用語として「条約」という語を用いているわけではないことになります。

要するに,限定的な意味で「語」を用いる場合には,その限定要素を明示するための手法の一つとして出典(典拠)等を示すということが必要になることがあるわけです。

ただし,客観的には限定的な意味で特定の語を用いていることになるのに主観的には普遍的なものだと勝手に思い込んでいるような場合,何らかの要素によって限定しなければいけないという必要性を自覚することができません。そのため,私がこのように説明してもどうしても理解してもらえないということが多々あります。

ここでもまた,要するに,あるテーマについてどれだけ深く研究し考察しているかによって,何らかの方法で限定する必要があると自覚できるかどうかが変わってくることになりますから,採点をする教授の立場としては,それだけで簡単に評価できてしまうということがあります。

なお,ごく日常的な意味で「語」を用いており,文脈から「語」の説明が必要ない(または説明するだけのメリットがない)と判断される場合には,当然,説明等が省略されることになります(このことは,民事訴訟において,特に争いのない部分については実質的に何も審理しないで形式的な処理で済ませ,争いのある部分だけを「争点」として詳しく論証し,攻防を尽くすということと同じことです。これを思考経済と言います。)。

ただ,ここでいう「文脈」というものがまたくせもので,特定の論文内の論理の流れにおける「文脈」と,その論文が社会の中におかれ多種多様な人々が読むことになるという「社会的文脈」のようなものとは区別して考えなければなりません。例えば,情報セキュリティの専門家にとっては「DDoS攻撃」の概念には全く説明を要しないかもしれません。しかし,「DDoS攻撃」を素材に法律論文を書くときは,読者である法学関係者にとって「DDoS攻撃」なるものが常識の一部であるとは考えられませんから,ある程度詳しく説明を要することになります。しかも,その説明が私の勝手な見解ではないということを示すために,一応信頼されていると評価できる書籍の中から文章を「引用」して説明の一部としたり,自分の理解が正しいということを論拠付けるために参考文献や裁判例や法令等を参照する脚注をつけたりします。

結局,「証拠→理論構成→主張」という枠組みの中で論文やレポートは成立しています。これは,一般的な構造を示すものです。より具体的な例として,学生が書く「レポート」の場合には,この一般的な構造の図式がより具体的なものとして表現可能で,例えば,「文献や裁判例や法令など→考察中の論理→考察結果としての結論」というかたちになります。この中で,「文献や裁判例や法令など→考察中の論理」の部分について,他の文献等の「引用」という手法が用いられる場合もありますし,「参照」という方法が用いられる場合もありますし,また,それ以外の方法が用いられることもあります。それは,その論理の論証のための必要性や有効性などの判断に基づいて使い分けられるものです。

一般に,ちゃんと勉強すればするほど,自明と思われていた概念が語が実はとても曖昧でよくわからないものだと気づくようになります。

そのように気づき,悩むようになるまでしっかり勉強したら,きっと現在の疑問の答えを自分で見つけ出していることでしょう。

簡単に言うと,大抵の場合,「何が問題なのか?」又は「何故問題になるのか?」を正しく認識・理解できた時点では,実はその答えを得ています。逆から言うと,何が問題なのか?」又は「何故問題になるのか?」を正しく認識・理解できていない時点では,何もわかっていないということになります。

コロンブスの卵と一緒で,一所懸命に調査研究を続けていると,ある日突然ヒントのようなものが頭の中に浮かび,全て見通せるようになることがあります。

自分を信じて勉強と考察を重ねてください。

投稿: 夏井高人 | 2012年8月18日 (土曜日) 07時39分

夏井教授

丁寧な回答ありがとうございました。大学ではあまり教授方と1対1で交流をもてる機会が中々ありませんのでとても嬉しく思います。

追加返信でいただきました参考文献の明記に関しては、自身が認識した根拠や考えに至る上で参考したものを必ず明記するようにしています。しかし、教授がおっしゃるほど出典を明記する必要性が分っていなかったので知ることができて良かったです。

「定義」に関してご回答いただいたのですが、「~制度」「~条約」の定義を説明する際も引用を明記しなければならないのでしょうか。下記で述べましたが、大学の教授に定義の引用はいらないと教わりました。そのときの定義とは、年金制度の定義はどのようなものかを説明する際(2~3行の文章)に、その内容は周知の事実で異論のないものだから引用先等は明記しなくても良いと教わりました。私自身も、周知の事実には著者の独創性やアイディアがあるわけではないのでそもそもそこに著作性は認められないと考えています。もちろん文章に著者の意見や独創性(年金制度に関して著者個人の考え)があるのならば、その文章を引用又は参考にする際は適切な引用・出典を明記するのは当然だと思います。少し屁理屈染みているかもしれませんが、私はそのように教わっていたのですが
どうなのでしょうか。この点に関しまして説明している書籍を見つけることができなかったので、間違っているのなら改めたいと思います。

お忙しい中本当に申し訳ありません。稚拙で支離滅裂な文章となってしまいましたが宜しくお願い致します。

投稿: cana | 2012年8月17日 (金曜日) 23時05分

canaさん

もしかすると「引用」でないものを「引用」と混同しているかもしれないと感じたので,付加的に説明します。

論文などでは,脚注などを用いて,かなり細かく出典(典拠)の表示をします。これは,通常は,引用とは関係ありません。論拠を示しているのです。そのような出典(典拠)が明確に示されていれば,その論文における記述の正確性を後になってから検証することも可能となります(出典等として記載されている文献等に直接あたり,対照してみればすぐに判別できます。)。

私が書いている分野は先行論文等がほとんどない領域なので脚注等が非常に少なくなってしまいますが,それでも誰かの説を是認したり否定したりする場合には,その説がそのようなものであるかについて私が認識した根拠として,その出典となる文献(雑誌名,論文名,出版年,頁など)を明記します。批判の対象となる学説を述べた学者がその後説を変える場合もありますから,典拠となる文献等の出版年はかなり重要な事項です。裁判例や法令でも同じです。特定の年代にしか意味のない裁判例(後に判例変更があったり,上訴審で取り消されたりしたものなど)や法令(後に法改正があったり廃止されたりしたものなど)では,年代的な射程距離のようなものがあるからです。

自分がどのようなものをベースにしたのかを明確に示さないと,実は何を言っているのか支離滅裂になってしまうことがあります。

このブログは論文ではないのでかなり手を抜いて書いてますが,論文ではそういうわけにはいきません。

学生のレポートの場合,どの文献等を調べた上で文章を作成したのかを明示するという意味でも,脚注等を用いて典拠を明らかにするように心がけてください。

投稿: 夏井高人 | 2012年8月16日 (木曜日) 14時18分

canaさん

コメントありがとうございます。

「引用」にはなかなか難しい問題があり,著作権法の学者の中でも細かい部分については争いのある部分があります。そもそも何が「公正な引用」であるかについては,その価値判断の尺度について,時代状況等による変化があり得るもので,その意味で浮動的なものというしかないので,現時点において一般に承認されている方法を努力して体得するしかありません。そのためには,かなり多数の書籍や論文を読み,その内容を理解しながら,それと同時に,そのスタイルや方式等についても丁寧に考えてみるという努力を重ねる必要があります。レポートなどを採点する教授の立場からすれば,レポートの体裁をちょっとみただけで,「この学生はどれだけ熱心に様々な論文を読んだのか」を即座に採点できてしまいます。レポートの体裁における方式の遵守と丁寧さは,そっくりそのままその学生の実力を反映していることがあるんです。それと同時に,あまりにもよくできすぎているレポートについては,常に警戒しています。誰か専門家などが書いた文書をそのままコピーしている可能性があるからです。

というわけで,ご期待どおりの回答ではないと思いますが,結局,良い「お手本」をたくさん知り,そのやり方を真似たり応用したりしながら自分でも沢山文章を書いてみるという伝統的なやり方よりもベターな方法など存在しないんじゃないかと思っています。

それから「定義」なんですが,全く異論のない定義については引用もあり得ません。公理もそうです。理系の論文では,そのような場合が多いと思います。

しかし,文系の論文の場合,そもそも「語」の定義が論者によって異なっている場合がむしろ普通です。だから,ある「語」について自明と思わずに,誰がどのような意味で使っている「語」として用いているのかを明示する趣旨で,(引用とは若干異なるかもしれませんが)出典を明らかにしなければならないことが多々あります。

文系では,思考が1種類しかないという考え方をとりません。理系でも本当はそうなんですが,たとえば,ある数学の公理の体系の中だけで考えるという限定を最初にやってしまうと,それ以上「語」の説明が全く必要なくなってしまうので,そういう場合には誰がやっても思考のベースが同一ということになります。ここらへんが文系の論文の難しさの一つかもしれません。

結局,「自分が使っている言葉は自分にしか通用していないかもしれない」と疑問に思えるかどうかで変わってくるかもしれませんね。

投稿: 夏井高人 | 2012年8月16日 (木曜日) 13時03分

大学3年生のものです。
いつもブログを興味深く拝見しております。

記事違いで申し訳ないのですが、以前他人の文章の使いまわしという記事を拝見致しまして気になることがありました。

私も大学生なので講義の課題をレポートとして提出することが多々あります。レポートを作成する際に、適切な引用が求められることは重々承知しております。ただ、専門用語の定義などを説明する際にも引用を明記しなければならないのでしょうか。周知の事実又は定義等に関しては引用先を明記しなくても良いと1年生の頃教わったことがあります。レポートに関する書籍を読んでも曖昧な部分が多く解決できませんでした。

私の大学を含め学生のレポート作成に関しまして問題となっており、私自身も気をつけて作成しています。しかし、教授によっては専門用語の定義の説明は引用先を明記する必要はないとおっしゃられていたりと、レポート作成の要領が自分の中で曖昧な上に、大学の処罰だけが重くなっており正直自分のレポートが適切なものなのかよく不安になります。

大学3年生にあるまじき疑問なのか知れませんが、ずっと気になっていました。返信いただけると幸いです。

投稿: cana | 2012年8月16日 (木曜日) 12時43分

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