地震と歴史
日本人の常識的観念の中で,「地震」のイメージとは,1発ドカンと大きいのが来て,あとはおしまい(あっても無視するに足る小規模な余震が数回)といったものではなかろうか?
たしかに,(有感地震だけに限定すれば)そのような単発的なタイプの地震は存在する。
しかし,今回の東日本大震災が明確に示した事実とは,そのような「本震+余震」というとらえ方それ自体が間違っているということだ。地震の本質は,規模の大小を無視すれば,かなり多数の群発地震のようなものを基本としており,そこでは本震と余震の区別など全く無意味だ。とりわけ,3月から続いている日本全土での地震の連続は,いわば「クラスター」とでもいうべき状態のものであり,もしかすると,このようなタイプの地震をもって基本形と観念すべきなのかもしれない。このことは,既に何度も書いた。
しかし,地震学の定説や政府見解は異なっている。
いろいろと検討してみたのだが,地震に関する定説が「本震+余震」という固定観念から離れられないでいるのは,過去のデータが乏しいからだという結論に至らざるを得ない。
口承によるものと記録によるものとを含め,地震に関する詳細な歴史的証拠というものは実はほとんどない。わずか100年前の大地震についても詳細部分は基本的に記録化されていない。
人々の記憶に残っているのは,最も大きな振動や津波が襲来した際の恐怖の記憶がメインであり,自然科学者的な意味での経過記録のようなものは基本的には存在しない(稀に武家の日記のようなものの中に散見される程度だろう。)。
しかし,過去の大地震もまた今回の東日本大地震と同様の経過をたどるものであったと仮定した場合,歴史そのものに対する見方を大きく変化させざるを得ないかもしれない。
例えば,徳川幕府が倒れたのは,薩長軍が優秀だからだったのではなく,安政の大地震によって(←半年以上にわたり非常に大きな地震が繰り返されていたと仮定する。),日本全土的に厭世的な気分が広がると同時に,徳川方の諸藩では地震と津波によって甚大な被害を受けており,とても闘えるような状況ではなかったということを仮説として考えることは可能ではないかと思われるのだ。
このことは,更に時代を遡って,末法思想が広がった時代についても言えるかもしれない。
今後,歴史学と地震学(更には文学)は,相互に連携を強める必要がある。
真の意味での正しい日本の歴史に関する研究は,そこから始まる。
イデオロギーや国家思想などによってではない。
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地震の概念を変更したほうが理解しやすいかもしれない
http://cyberlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-d496.html
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