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2011年4月 3日 (日曜日)

演繹と帰納

「とても知能指数が高いのではないか」と推測される人なのに,「とても頭が悪い」としか評価できない人がいる。

どうしてなのか考えることがある。

様々な原因があり得る。

その中で,演繹と帰納とが有機的に組織化されていないというパターンが存在することに気づいた。

そのようなタイプの人では,理屈は理屈で暗記しておしまいになってしまっている。過去に誰かが考えた理屈を暗記して説明することは誰よりも上手なのだが,現実とのリンクがないし,検証作業がほとんどない。

だから,例えば,大学教員として,それまで暗記した「理屈」を学生に伝授することにかけては素晴らしい能力を発揮することができても,目の前に存在する「事実」をきちんととらえることができなかったり,これまでとは全く異なる視点でものごとを考察することができなかったりし,そして,実務的には才能ゼロというようなタイプの人が出てくる(もちろん,その逆パターンもある。)。

一般に,演繹から始めても帰納から始めても,結局,仮説とその検証という思考作業を繰り返すだけのことであり,そのための手法が異なっているだけだ。

要するに,どんな理屈も本当は「仮説」の一種に過ぎず,常に検証プロセスの中にあり,もし検証に成功する可能性が低い場合にはさっさと捨ててしまわなければならないものだという余りにも当然のことを当然のこととして理解できているかどうかが重要だと思われる。

学者に限らず,為政者であっても,企業経営者であっても,この帰納と演繹を行ったりきたりして常に検証を続けるという思考作業ができない者,あるいは,ある理屈を単なる仮説としてとらえることができず,そのために自説にこだわり続ける者については,一般に,無能として評価できると思う。

ただ,問題は,低レベルの思考しかできない者は,自分の思考が低レベルのものだということを理解することができないという点にある。

大は小を兼ねることができるが,小は大を兼ねることができない。

そして,更に問題なのは,欲望(権力欲,名誉欲,物欲等)の大小と知的能力の大小(または技能の優劣)とは,相互に無関係だということだ。

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