「想定していなかった」ということの意味
決定権を有する者の想像力や理解力が乏しく,想定する能力を欠いていた場合,あるいは,意図的に想定できないものとして扱った場合,それは想定外ではない。
基本的には,教養の著しい不足がこのような事態を招く。
古地図や古地質の研究による古代の地震や自然災害等に関する研究は,ずいぶんと昔からあった(一部のマスコミは「最近わかってきた」と報道しているが,これは嘘だ。無知または無教養に基づくものと思われる。ちゃんと勉強をしている者にとっては常識に近い。古代にも中世にも巨大津波で全崩壊したことが何度かある。)。しかし,そのような研究が超有名大学等のメインストリームでなかったことも事実だと思う。なにしろ,ネガティブな見解は文部科学省から睨まれ,科研費などの研究費の面でもじわじわとしめつけられて研究できなくされてしまうことさえあったからだ。迎合的でなければ出世できないことがあるのは,どの業界でもどの分野でも同じだ。
だから,普通の人の想定能力を超えた優れた想定を含む有意義な研究成果は,無視されたり敵視されたりすることが比較的多い。
本当は,逆でなければならないのだが,要するに,世の中というものは,お金と権力をもっている者が一番強い。そして,そのような者らが衰退して影響力を及ぼさなくなるまで,真に意味のある見解が日の目をみることはない。アイザック・ニュートンがやったことは,その最悪の事例の一つだと言える。
以下は,あくまでも一般論。
私は,優秀な人間が自分の能力を信じることは良いことだと思っている。しかし,自分の能力を過大評価することは良くないことだとも思っている。まして,自分には全ての種類の才能があり,何でも理解できると思うことは,馬鹿なことだと思っている。そして,そのような意味で馬鹿な者がトップにいる場合,その組織やその組織が所属する社会にとって極めて悲惨なことだと考える。
このように考えるわけだが,仮に想定外の事態が発生しても,臨機応変に対応することができるかどうかで,真の意味における人間の優秀さを判定することができる。また,人間にはいろんなタイプの人がいるから,例えば,お公家様のような上品な生活には全く向いていないけれども戦争における過酷な戦闘状態の中では誰よりもその真価を発揮するタイプの人もいる。
真に優秀な人材を投入し,指揮権を与えて事態に対処しなければならない。
必ずいるはずだし,本当は誰がそのような真に優秀な人材であるのかを知っているはずだ。
これまで,自己の保身のためにそのように優秀な人材に対してあえて冷や飯食いのような処遇をしてきたというような場合だってあり得ることは,想定の範囲内のことだ。
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