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2011年3月30日 (水曜日)

後藤新平待望論

下記の記事が出ている。

 88年前の復興院、後藤新平が主導 問われるトップの力量
 産経ニュース: 2011.3.28
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110328/plc11032823000022-n1.htm

後藤新平は,私の郷里である岩手県の出身であり,岩手県では郷土の偉人の一人として扱われている。

日本最初の首相である原敬も岩手県の出身であり,国家の危機のときに重要な仕事をこなした岩手県出身者はかなり多数存在する。

後藤新平待望論は,理解できる。

しかし,マスコミの論調をながめていると,あからさまに知識・教養の不足がみられ,インスタントラーメンのように促成で人材が生まれるという前提で書かれているものが少なくない。しかし,そんなことは絶対にない。

後藤新平を育てたのは,児玉源太郎だ。児玉源太郎がいなければ,後藤新平は「口うるさいだけの奴」としてとっくの昔に政界から葬り去られていたのに違いない。

私の意見では,後藤新平は非常に優秀な人物だっと思う。しかし,一般に,優秀な人材という者は,その人材を十分に使いこなすことのできる極めて優秀な上司と出会い,十分な権限と予算を与えられて初めてその才能を発揮することができる。

後藤新平の場合,児玉源太郎という稀代の豪傑であり合理主義精神のかたまりのような人物との出遭いがその人生のすべてを決定したと言ってよいだろう。それは,日清戦争終結後の防疫活動から始まり,台湾統治でその才能を開花させ,そして,東京復興へとつながったといえる。

ただ,東京復興の際には,児玉源太郎という政治的バックボーンを失ってしまっていたため,後藤新平がその真価を十分に発揮することができなかった。

要するに,実務能力に非常に長けた者は,政治的能力においても優れているとは限らないし,仮にそのような才能があったとしても一人二役は無理だということを理解しなければならない。そして,仮にそのようなコンビネーションが存在したとしても,開花までは長い年月を要するということも理解しなければならない。

加えて,現代のマスコミは,ちょっとしたことでもスキャンダルとして騒ぎすぎる。児玉源太郎も,当時の政治家や将校が全員そうだったように,芸者遊びはしたし,楽しむことは楽しんだ。しかし,それなしには極度の緊張を要求される職務を遂行することができなかっただろうと思う。人間は,緊張と弛緩を繰り返すことによって精神のバランスをとる動物なのだ。それとは反対に,外見上,清廉潔白だけで通しているかのように見える者は,実はどこか精神的疾患をもっていることがないわけではない。例えば,欧米の高位の聖職者の中に男児児童(信者や聖歌隊員等)に対する性的虐待を加え続け処罰されている者が決して少なくないことがその例だ。その意味では,日本のマスコミは,つまらないゴシップやスキャンダルを大々的にとりあげて視聴率や購読者を一時的に増加させることで飯を食うことばかり考えてきた結果,真に有用な人材をどんどん葬り去ってしまっていることになると信じている。大局観というものがないのだ。

要するに,偉大な人物を育てるためには,その人物を権限上及び予算上バックアップし政治的な能力に優れた豪傑的な人間がまず存在しなければならない。そして,そのような人物に見出されるという幸運が必要だ。本人が持ち前の才能を発揮できるのは,そのあとということになる。

このように考えてくると。現在の日本で後藤新平のような人物を見出すことは非常に困難または不可能なのではないかと思う。

かつて,そのようになり得た人材は存在した。

しかし,すべてマスコミが潰してしまった。

いまさら待望しても駄目で,自業自得というものだ。

マスコミの罪は深い。

他方で,妙な「平等教育」も悪い。

人間は,どうやっても物理的に平等になれない。完全に平等になるためには,極論すれば,同一の物理的空間を全員が同時に利用可能でなければならないはずだが,人間ひとりが立っていられる場所には一人しか立つことができない。そして,そこから数センチでも離れていれば,条件は全く異なる。

要するに,人間はもともと平等ではないし,平等になることは絶対に不可能なのだ。

だからこそ,法の適用の関係では,平等な取扱いが「当為(sollen)」として求められる。

それは,「***であるべきだ」ということを意味し,「***である」ということを全く意味しない。

しかし,「平等教育」の狂信者は,当為と事実との相違を理解することができない場合が多い。知的キャパシティに限界があるのだろうと推定する。

このように「平等教育」は,本来は良いものであったかもしれないが,現実には非常に悪い奴隷化政策または凡庸化政策のようなものに化してしまっている。結果的に,僻みと嫉妬と足ひっぱりだらけの社会になってしまった。これでは,誰も思い切った政策を打ち出すことなどできない。

現実に,能力があり努力しているものからはどんどんお金を徴収し,何もしないでブラブラしている者に奇妙なお金をばらまくようなことが日常茶飯事になってしまっている。これでは,才能のある者が自分の能力を活かす機会がないというだけではなく,努力し成果を得ても努力しないで怠けている者を助けるだけのこととなることに馬鹿らしくなってしまい誰も努力しなくなってしまう。これは,子供でも理解できる当たり前のことだ。

それぞれの分野において,優れた者を優れた者として認める社会にしなければ,日本が救われることは決してない。

運動能力に関しては優劣が目で見えるので諦めもつきやすいかもしれないが,実は精神面や知性の面でもあからさまに優劣はある。その優劣や相違を正当に承認することが大事だ。優劣や相違があっても,「個人が人間として同等の価値を有するべきだ」と考えることが個人の尊厳の本質的な意味だ。

その上で,どんな優劣が存在していたとしても,「法の適用の上では平等に扱う」というのが真の「平等」の意味だ。

もともと差異が一切存在しないのであれば,逆に,個人の尊厳も平等も存在し得ない(相違がなければ平等を認識することも不可能となる。「闇夜の烏」は見えない。)。

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(余談)

過去の歴史をふりかえったとき,「偉人」と目される者の圧倒的多数が選挙で選出された者ではないということに気づく。

民主制は「独裁制よりも弊害が少ない」という意味で正しい政治システムだ。

しかし,民主制の下では,偉人が出なくなる。

「ソクラテスの弁明」以来今日に至るまでずっと,このことは,公理に近い真理の一つだったのではないかと思う。

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