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2011年3月27日 (日曜日)

今回の原発事故では,「想定外」としたことが予見義務違反ではなく結果回避義務違反となる場合として認識・理解すべきだ

何度も書いてきたことだが,「想定外」であったことは,免責を導くことではない。想定すべきなのに想定しなかった場合には,予見義務違反または結果回避義務違反として,むしろ積極的に過失の存在を肯定するために機能する。そのような法的意味合いを理解せず,損害賠償責任を免れるために「想定外」と言い続けている者があるとすれば,それは非常に愚かな行為だと言うべきだし,そのように安易に考える者(企業等)の顧問弁護士は無能だと評価してよい。要するに,何も考えなしに「想定外」と述べることは,実は非常に危険なことなのだ。

ただ,法理論的には,「想定しなかったこと」が予見義務違反となるのか,結果回避義務違反となるのか,そのいずれであるのかの判定が難しい場合があり得る。これは,事実の証明によって判定されることになる。

福島原発のトラブルに関し,東電もまた「想定外だった」と繰り返し弁解している。しかし,この場合においても,「想定外」としたことが法的責任を免れされるものではなく,逆に予見義務違反または結果回避義務違反を基礎付け,過失が存在したということを基礎付けるものだということは繰り返し述べてきた。

そして,今回の大震災のような大津波が襲来する可能性があり得ることを明確に認識していたこと(つまり,予見可能性があったこと)が事実によって証明されたようだ。

下記の記事が出ている。

 大津波、2年前に危険指摘 東電、想定に入れず被災
 共同通信: 2011/03/26
 http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011032601000722.html

この記事にあるように,東電は,とんでもない大津波の襲来があり得ることを認識していた。ただ,そのような未来が到来することを認めたくなかったのだろう。何しろコストが発生する。

そして,当時における東電の経営姿勢は,単純にコスト削減の一辺倒だったので,現場の作業のほとんど全部を社内の正規従業員による社内業務からアウトソースに切り替え,プルサーマルによるMOX燃料の使いまわしを導入し,その一方で,審議会等において危険性が指摘されても迅速に改修をしないでコストを削減してきた。東電の経営姿勢としては一貫しており,「余計に金がかかることはしない」という経営姿勢を貫いてきたことになる。

これを法的に評価すると,予見していたのに結果の回避措置を講じなかった場合,つまり,結果回避義務違反があった場合として理解することができる。

このことは,交通事故を例にとって考えると理解しやすい。例えば,自動車を運転して「交通事故多発注意」と書かれた看板が掲示されている道路を走行中,「自分とは関係ない」と勝手に思い込み,速度を落とさないで走行したため,歩行者が急に飛び出してきたのにブレーキ操作が間に合わず,跳ね飛ばして死亡させたという事例が適切だろう。この事例では,運転者は,「自分とは関係ない」と判断した以上,交通事故が発生する確率が高い道路だということは認識しており,ただ(何らの根拠なく)「自分だけは例外だ」と自分に都合よく判断して,結果回避のための措置を講じなかった場合だと理解することができるのだ。

この交通事故の事例で,予見可能性があったというためには,「歩行者が飛び出してくる蓋然性が高い」と認識・理解するまでは求められない。なぜなら,「歩行者が飛び出してくる蓋然性が高い」と認識していたのに「それでも良い」と認識していた場合には,むしろ未必の故意があったと解釈すべきなのであり,上記の交通事故の事例では,跳ね飛ばしても良いと考えて運転していたのと同じことになるから,未必の故意による殺人が成立することになる。ただし,通常は,「それでも良い」とまでは考えないだろうから,普通は(何ら根拠なく)「自分だけは自動車を安全に操作して停止させることができる」と勝手に思い込んで運転しているだけだろうから,未必の故意による殺人ではなく,過失による致死が成立するのにとどまる。

これを福島原発の事故に即して言うと,予見可能性があったというためには,「巨大津波が襲来する蓋然性が高い」と認識・理解していたことを要しないことになる。未必の故意による殺人罪の場合に該当するとは考え難いが,予見可能性があった(または予見していた)のに,結果回避措置を講じなかった場合として過失により損害を発生させた場合に該当すると考えるべきだろう。

なお,1000年に一度や100年に一度と言った表現が適切でないことは既に述べている。確率論としては,1000年に一度であれ1万年に一度であれ,そのような事態がやってくるのが今日か明日である可能性は常に否定されないのだ。


[追記:2011年4月14日]

関連記事を追加する。

 「日本政府は不毛な地震予知を即刻やめよ」 ゲラー東大教授
 産経ニュース: 2011.4.14
 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110414/dst11041402010016-n1.htm


[このブログ内の関連記事]

 「想定していなかった」ということの意味
 http://cyberlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-dd8f.html

 地震を周期で考えるのはやめにしたらどうか
 http://cyberlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-3d7b.html

 最適化やコストの極小化だけを目標にするのはやめよう
 http://cyberlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-0f4c.html

 危機をイメージできない者には危機管理の設計などできない
 http://cyberlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-d88b.html

 自己過信を捨てよう
 http://cyberlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-a3ae.html

 行谷佑一,佐竹健治,山木 滋「宮城県石巻・仙台平野および福島県請戸川河口低地における869年貞観津波の数値シミュレーション」
 http://cyberlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/869-c01d.html

 プレート理論だけで全部説明したことにしようとすると間違うのではないか
 http://cyberlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-6d9b.html

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コメント

立山紘毅先生

法律の条文に超巨大な自然災害や戦争による破壊があり得ることが明記されているので,損害賠償責任の免除の問題とは別に結果回避義務はあると考えるしかないでしょう。

ただ,結果回避義務を尽くしても避けることのできなかった結果については賠償責任を免除するというだけのことだと思います。

この結果回避義務の中には,予見される事柄の中からどのレベルの事柄について現実に対応が要求されるかについての「想定」の設定義務も含まれると思います。通常,「想定」は「予見」の一種だと安易に考えられていますが,理論的には完全な間違いで,結果回避義務の一部だと考えるのが正しいです。

能力が低すぎて予見も想定もできなかったというような場合には,無能であったことそれ自体を責任原因とすべきだと思います。

投稿: 夏井高人 | 2013年3月22日 (金曜日) 04時25分

 刑事責任において、結果予見義務違反か結果回避義務違反かが論じられたとき、そこには「疑わしきは被疑者の利益に」という刑事法の大原則が前提となって、前者からより後者へ傾斜して判断されるという論理構造が存在した、と思います。

 また、民事における不法行為責任の場合、立証責任論において、被害の発生と、その回復を求める側に立証を尽くさせるのが正義にかなう、という一般原則が存在して、同様に判断される論理構造を展開したのだろうと思います。

 しかし、まず後者についていえば、4大公害訴訟において、「工場の門前まで立証すれば、原告の立証の負担は一応終了し、その後、立証の現実の負担は、たとえば『営業上の秘密』等々手厚く法的な保護が存在し、かつまた最もその内情を良く知る者に『原因行為や被害発生との因果関係の不存在』を立証する負担を転換させる方が公平に適う」という法理が確立したのは「釈迦に説法」の類いですから、これ以上申しません。

 ただ、刑事裁判の場合も、同様の「転換法理」はありうるのではないか、つまり結果予見義務にせよ結果回避義務にせよ、原子力発電所のような場合には、訴追側に全立証の負担を負わせるのが適当でもなければ、むしろ不可能である場合、ある種の「転換法理」が考えられてもいいのではないか、という気持ちがしています。

 実は、このあたり、もう少し私のパースペクティヴは広く、たとえば「痴漢冤罪」を避けるためにも、あるいは強度の精神的負担を有形無形に組織的に加えて、過労、労働災害、自殺に追い込まれた場合、その救済を実効的ならしめ、痴漢冤罪やリストラ犯罪を効果的に抑圧する法的考え方として、「被害者の側が一応の主張・立証を行った場合、それ以上の主張・立証の責任を負わせることが困難であるばかりではなく、不適当である(たとえば、セクシャル・ハラスメントなどの場合、PTSD発症の危険性きわめて高い・リストラ犯罪の場合、会社は組織的圧力で口裏合わせをやって「人事政策の一環である」と強弁することがほとんど)と考えられる場合には、立証の現実の負担を転換させる法理をもう少し一般化できないか、と考えています。

 これは、自身が職場のひどいハラスメントに苦しんで、その上でハラスメント対策の講習の講師を破るというとんでもない経験の時に考えたことですが、実際、ハラスメントでは、加害者は組織的に「知らぬ存ぜぬ」を貫徹し、その周囲にあって事情を知る者も傍観者を決め込む場合が非常に多いこと、その結果は自殺という重大な結果に陥り、「自分の手を汚すことなく邪魔者を消す」不合理がまかり通り、それが罪刑法定主義だの法の一般原則だので保護されている、という不条理を感ずるからです。

 話が少しそれすぎましたが、原子力発電所の設置・運営者の場合、きわめて強度の危険を内包する工作物について、その「保安」のために、がんじがらめの「秘密」の壁が張り巡らされていること、そしてまた訴追側にせよ被害住民にせよ、主張・立証のための情報も証拠もすべてはその壁の向こうにあることを考えると、そもそも「疑わしきは被告人の利益に」とか「被害を主張する側に主張立証を尽くさせる」とかいった原則を援用させるべきではない、というところから出発すべきではないか、そしてまた、それは「原子力」というある種非日常的存在だけでなく、案外、日常的かつ極めて厄介で当人には重大な結果をもたらしかねない現象にまでパースペクティヴをもちうるようにも漠然と考えています。

投稿: 立山紘毅 | 2013年3月22日 (金曜日) 04時07分

井本雅利さん

申し訳ありませんが,具体的な事件に関してはブログ上で相談等に応じておりません。

あしからず。

投稿: 夏井高人 | 2013年3月17日 (日曜日) 18時05分

「予見可能性」「回避可能性」を検索していて、ここに辿り着きました。
初めまして、井本雅利と申します。63歳です。
実は「求職者支援法」という裁判をしています。平成24年9月14日~平成25年4月26日まで6回の審理を経て、遂に結審しました。
この裁判は、国が、「就活してもなかなか働き口が得られない経済的困窮者に手に職を付けさせ、早期の就業に繋げようとするもの」で、根拠法は「求職者支援法」にあります。
ところが、国が訓練講座を民間の企業に委託するため、定員割れが起きると、さっさと民間訓練校が中止する。実際には6割くらいしか訓練講座を受けられない。当方もそのひとりです。そこで、次のような訴えの趣旨で提起した次第です。
人は誰しも年をとり、ある日突然、障害者にもなり得る。そして勤め先が潰れることもあれば、卒業しても就職できなかったりもする。ある意味それが機会均等である。本法はそのための恒久立法である。人は誰しもがそういう事態に遭遇しないとはいえない。 そしてそれは、国民誰しもに云えるのである。

判決は、4月26日に出ます。
控訴に備え、アドバイス等いただければ幸いです。

投稿: 井本雅利 | 2013年3月17日 (日曜日) 12時28分

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