英国:情報公開法改正法案をめぐる議論
下記の記事が出ている。
Protection of freedoms bill: what does it mean for free data?
Guardian: 11 February 2011
http://www.guardian.co.uk/news/datablog/2011/feb/11/protection-freedoms-bill-data
この記事の中で注目したいのは,政府がPDF形式で電子化された情報を公開することは,情報の再利用という点で問題があるという部分だ。つまり,PDFは便利なのだけれど,再利用という点では必ずしも便利ではない。もしそれがXMLなどの汎用的で標準的なマークアップ言語で記述されたファイルであるとすれば,再利用の可能性は飛躍的に拡大する。
ただし,ここで問題となることは,文書は,文章としての意味内容だけが問題なのか,それともフォームを写真的に再現できているかどうかも問題なのか,という点だ。
もし意味内容だけが問題であるとすれば,PDFに対するXMLの優位性は疑うべき余地がない。
しかし,例えば,証拠または歴史的価値という観点から考えてみると,ある文書がどのような「かたち」のものとして生成され保存され利用されていたかということそれ自体が非常に大きな重要性を持ってくる。この点では,PDFやXMLなどを含む電子化された文書に対するマイクロフィルム(マイクロフィッシュ)の優位性は,これまた疑うべき余地がない。マイクロフィルム(マイクロフィッシュ)では,後になって電子的な改変を加えることが不可能だという点で証拠としての相対的優位な価値を有している。
ひとくちに「情報公開」と言っても,そもそも公開の対象となる「情報」の概念をきちんと定義した上で議論がなされていない場合が非常に多い。場合によっては,定義をすること(=要素集合を解析し構成すること)について全く能力を有しない者が専門家顔をしている場合さえあるので,ますますもって混迷を深める原因をつくってしまっている。
このような要素集合の解析と構成は,実は理系の仕事ではなく文系の仕事だ。ところが,それを電子的な構成物として生成するための「技術」についての専門性は理系のテリトリーに属し,文系には属していない。
要するに,理系・文系という分類がそもそも間違っているのかもしれない。
少なくとも,現代社会においては,3つ以上の専門性を完全に身につけているのでなければ,飯を食っていくことが難しくなってしまっている。例えば,ビジネス弁護士であれば,会計及び税務の分野に関する専門性も完全に具備してないと平凡の域を脱することができない。サイバー法の分野では,これに電子技術と実務経験が付加される。
かなりハードな時代になってきたと言えるのだが,それをこなせる人間しか専門家とは言えないのは,(現象形態としては少し違うかもしれないけれど)本当はどの時代でも同じかもしれない。例えば,日露戦争だけに限定すれば,児玉源太郎を優れた軍人としてとらえることしかできないかもしれないが,戊辰戦争~西南の役~日清戦争~台湾総督のころの児玉源太郎を考察してみれば,単なる軍人ではないということがよくわかるし,そうだからこそ,あれだけの仕事をこなすことができたのだということを簡単に理解することができる。そのようにずっと思ってきたところ,雑誌『歴史街道』2011年3月号に児玉源太郎の特集記事が出ていた。病院で診察の順番を待っている間に読もうと思って購入したものだ。その記事を読んでみて,自分だけがそのように思っていたのではないということを知り,少しほっとした。
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