仮想高齢者問題
とんでもない数の仮想高齢者が存在するようだ。それらの者についても年金等が支出されてきたのだろうから,世間には信じられないほど多数の詐欺犯罪者が年金や税金等をむさぼりながらのうのうと暮らしているということが推定されることになる。下記の記事が出ている。
【長寿社会の虚実】戸籍生存…頭抱える除籍作業
産経ニュース: 2010.12.29
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101229/crm1012290701002-n1.htm
ちなみに,法科大学院や司法研修所等で要件事実の勉強をしっかりとやった人はすぐに理解できることだと思うが,権利の発生はその権利の存続を推定することができるのに対し(それゆえ権利の消滅事由が問題となる。),事実の発生はその事実の存続を推定することができない(それゆえ,例えば,時効期間の経過との関係で事実の継続の推定条項が必要となる。)。
戸籍はどうだろうか?
戸籍の記載に基づいて発生する権利があるとすれば,その権利は(消滅事由の存在が証明されない限り)継続することになるだろう。
しかし,戸籍に記載された「個人の生存」という事実は,戸籍届出の少し前の時点での生存しか推定させないと考えるのが本当は正しい(例:出生した後,戸籍届出前に死亡したのに出生届けがなされ死亡による除籍がなされていない場合など)。
つまり,理論的には,戸籍に記載されているということは,特定の個人の存在という「事実」を何ら推定させる効力がない。そして,この戸籍の記載に基づいて作成される住民台帳の記載も特定の個人の同一性及び生存という「事実」を推定させる効力が(理論的には)全くないということになる。
ないのだけれど,あるものとして扱うという「擬制(フィクション)」しか存在しない。
「個人」という問題を考える場合,この点を忘れてはならない。
この問題について,ある法哲学者と意見を交換した。彼の意見によれば,ホッブズが考えたような「延長」としての「自己」が機能しない場面が多くなったので,結局,「何もわからない」というのが正しい解だという。例えば,インターネット上では「延長」が成立し得ない。
そういうわけで,「個人」と関係する法律問題については,全く異なる視点からの法理論の再構成をしなければならないことになる。
そのような作業をずっとやってきた。
現時点では誰も承認してくれないだろうけれど,いずれ私の説だけが生き残ることは確実だ。なにしろ,通説を含め,非常に多くの説は,戸籍によって個人の存在が「証明」できるということを大前提にして構築されているからだ。それが不可能だと判明したとき,ほぼすべての通説理論が根幹から崩壊する。かなり多くの法学関係書籍を捨てなければならない事態が発生することだろう。キルヒマンの言うように法改正によっても法学の書籍が廃棄されることになるかもしれないが,法改正がなくても全部廃棄しなければならないような事態が発生することはいくらでもあり得る。それは,「所与の前提が否定された場合」という一般的定式によって表現することが可能だろう。
そのようにして通説等の大半が崩壊してしまった後が私の出番ということになるだろう。
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