« 総務省:プロバイダ責任制限法検証WG(第1回会合)配布資料 | トップページ | AMDとIntelが協力してモバイルLinuxを推進 »

2010年11月16日 (火曜日)

元ゼミ生が司法試験合格

私の明治大学におけるゼミ(専門演習)は,司法試験合格をめざす受験用ゼミではないし,その目的でゼミに参加する学生は少数ではなかったかと思う。

以前,高卒で就職していた男性が明治大学に入学し,私のゼミ生となったことがある。その学生は,社会経験をしていた分だけすこぶる理解が早く,4年生在学中に司法試験に合格し,その後,弁護士となった。

あるとき,元裁判官だけの懇親会のようなところに参加した際,非常に高名な裁判長だった人にそのことを話したら,「予備校に通って短期で受かる者がいるから司法界が駄目になる。夏井君のところで合格した学生は,予備校で特訓でも受けない限り現役合格するはずがない。こういうことをなくすために司法制度改革をしなければならない。けしからん。」と逆に怒られてしまったことがある。

その元裁判官自身は超有名大学出身で現役合格しているから,短期間で現役合格することに怒ったのではないだろう。いろいろ書きたいこともあるが,侮辱罪や名誉毀損罪で訴えられるのもいやなので,やめておく。

なお,合格して弁護士となった彼の名誉のために書いておくが,彼が現役合格できたのは,やはり頭脳が優秀だったのだろうと思うし,とにかく一所懸命勉強していたので,その努力の成果だと思っている。また,彼は,私のアドバイスに素直に耳を傾けてくれたし,そのアドバイスに従って更に工夫しながら努力を重ねている様子が分かった。そして,彼は,大学を卒業する際,全学の中でも成績上位者として表彰を受けている。

さて,それ以降,しばらく司法試験合格者が途絶えていた。私が病気をしたため,一時,事実上ゼミ生をとらなかった時期があったこともその原因のひとつになっているかもしれない。

もちろん司法試験合格だけが人生ではないし,合格したら合格したで,そのあとの更に厳しい人生が待っているので,人それぞれなりに自分が興味をもてる仕事を一所懸命やるのが一番良いというのが私の信念の一つだ。だから,私は,ゼミの中で司法試験合格をめざす学生を意図的に増やそうとは全く思わない。「法律家に向いている」と自分で確信をもてる人だけが司法試験をめざせば良い。

そんなこんなしている間に,今年になって,元ゼミ生だった男性が司法試験に合格した。ロースクール制度ができてしまったために少し遠回りをしてしまったことになるが,とにかく彼が人生の目標の一つをクリアできたことは,私としてもとても嬉しいことだ。

しかも,私のゼミは,司法試験合格向けゼミではなく,法学部の中ではどちらかというと少し変わったゼミだ。私自身も法学部教授としては少し変り種のほうかもしれない。(笑)

今回司法試験に合格した彼は,私のゼミのとても個性的で魅力的なゼミ生らの中で揉まれながらも楽しい2年間を暮らした人だ。それゆえ,今後,社会内の多様なニーズの中で,普通の人には手がけられないようなタイプの案件でも柔軟にこなしていける立派な法律家になってくれるのではないかと期待している。若くて柔軟な大学生時代を,司法試験の勉強だけではなく,司法試験とは全く無縁そうなゼミの中で,司法試験とは関係のない学問や思索や討論を経験しながら2年間を過ごしたという記憶が,きっといつか彼の人生のための肥料の一つになってくれるだろうと信じている。

だいぶ老いてきてしまった私にはできないことは,若い人たちの手に託すことにしたい。

今度,ささやかながらお祝いをしてあげようと思っている。

[余談]

現在,私は,明治大学法科大学院で幾つかの講義をもっている。

そこでは,せっかく明治を選んでくれた学生のために最先端の学説と思想を紹介している。おそらく世界でも最も最先端だと思う。明治を選んでくれた学生が他のロースクールの学生よりも可能な限り相対的優位を獲得できるようにしてやりたいという気持ちがそこにはある。この講義内容は,学生達のためのものなので,基本的には公開していない。

また,学生には,通説・判例をきちんと理解することを強く勧めている。私にとっては「そんなに遠くない将来に瓦解してしまうに違いない」と確信するしかないようなレベルの低い学説であっても通説は通説だし,その通説なるものに従って司法試験が実施され採点されるかもしれない。したがって,試験対策として通説をマスターすることが必須となるだけではなく,なぜ通説が駄目なのかを理解するためには通説に通暁している必要があるのだ。だから,私の授業は,本当はかなりハードかもしれない。一般的な教科書を読めば,(馬鹿でない限り誰でも)わかることは予め読み理解しておかないと授業についてくることができない。

しかし,それでも私は,現在の方針を変える気はない。

教授というものは,ロースクールの学生を司法試験に合格させるために存在しているのではない。司法試験に合格することは当然のこととした上で,合格し法律家となった後に,他のライバルとの関係で相対的優位を保てる「何か」を身につけた人材を育てることが真の使命であると理解しているからだ。加えて,立派に法律家となった後には,「夏井教授何するものぞ」と頑張って勉強を継続し,私の理論をことごとく論破し,全く新たな通説を自信満々で形成できるような優れた人材が現れることを心の底から願い続けている。

目先のことだけしか考えられない者は,教授としての資格を有しない。

|

« 総務省:プロバイダ責任制限法検証WG(第1回会合)配布資料 | トップページ | AMDとIntelが協力してモバイルLinuxを推進 »

コメント

yamatomさん

お元気のようで何よりです。

人間それぞれ「勉強したい」と思う時期や年齢というものがあって,それは相当に個人差があります。同じ時期に同じ教育をしなければならず,就職も高卒や大卒で横並びという日本社会は,それはそれで公平感(だけ)を味わうことができますが,実はひどく不公平で理にかなっていない社会だと思います。できる人は,高校生くらいでも立派に社長や弁護士や教授の仕事をこなせると思いますし,その逆もまた真です。しかし,そのような特に優れた者やそうでない者の存在を露骨に承認することがとても嫌いな人が日本には圧倒的に多いので,こういうことになっているのでしょう。空虚だけど軋轢のない社会です。

私の生き方は,「自由を愛する」の一点に尽きるもので,自分の信ずるところに従って生きてきました。仕事にしても勉強にしてもそうです。しかし,日本の中では標準的と言えるような生き方ではないために,かなり孤立化することを覚悟してましたし現にそうです。

でも,若い人たちや後世の人たちのために何かを残してあげたいと思うならば,このような生き方を選択するしかないとも思いつつ,これまで生きてきました。

本気で学問にうちこもうと考えたのは40歳のときですから,学位も何もありません。

決して楽な人生ではないです。

でも,満足してます。

人それぞれ個性があるので,自分の人生をどのようなものとするかは自分で決めるべきものだと思っています。

私の授業は,人生のどこかで必要になったら思い出してもらえると少しは役にたつかもしれないと思うことを伝えているだけです。実際には役にたたないかもしれない。けれど,可能な限り普遍的な真理に近いものを求めてきたしそれを求める苦闘の姿だけはお見せできたのではないかと思っています。

人生は,死ぬまで困難の連続です。生きているこそそれ自体が困難の原因かもしれない。

でも,生きていなければ,そのようなことを考えることもできないわけだし,「考える葦」として生まれてきたことを喜びとすべきじゃないかと思っています。植物の葦は「考えることのできる存在になりたい」と考えることさえできません。

それぞれの人生があり,それぞれの生き方があり,それぞれの仕事があります。でも,時間だけは本当に平等です。平等に与えられている時間をどのように使うかは各人の自由です。怠けても良いし,何かのために夢中になることのために使っても良い。それは各人の自由ですし,どのような状況の下においてもそのことに変わりはありません。

だから,もし勉強したいのであれば,別に大学にいなくても勉強はできます。そもそも大学にいても勉強にならないことが多い。なぜなら,勉強するのは自分自身なのであって教授ではないからです。教授は勉強したい人のためにお手伝いをすることしかできません。

社会人である以上,教えてくれる教授もいないわけですが,教授でない先生は世間のあちこちに存在します。優れた人材というものは,意外と数多く存在しているものです。たまたまその肩書きが大学教授ではないというだけのことです。ですから,そのような優れた人と出会い,何かを学び,自分が考え始めるためのきっかけを与えてもらえるのなら,それが幸福というものなのじゃないかと思っています。

勉強は,お金がなくても部屋がなくてもできます。私は,司法試験受験生のときにはとても貧乏だったので,散歩しながら徹底的に自問自答を繰り返し,勉強を重ねました。古典ギリシアの弁証法と全く同じやり方です。これならお金も教科書も必要ありません。

参考になっているかどうか分かりませんが,要するに気の持ち方一つです。

より良い人生をゲットしてください!

投稿: 夏井高人 | 2010年11月29日 (月曜日) 20時42分

久しぶりに拝見したら、同期と思しき方のコメントがあったのでつい反応してコメントを・・・
親記事にあるような、立派に一つ事を成し遂げた方に比べれば、日々適当に流してる自分は今ひとつ肩身が狭い思いですが、機会があれば、旧交を温めたいなあと思う次第です。

今更に感じるのは、当時、先生のゼミの講義では、『かなり』手加減して頂いていたんだなぁ、ということです。
情けない話、1、2年次に吸収しきれていなかった部分の補完に時間を割いて頂いていたため、今思えば、折角いろいろとテーマがある分野について学ぶ時間を大分損していました。
(それでも、当時学んだ事柄は、実践でも即役立ったのですが)

…こんなこと書くあたり、歳食ってしまったという実感です。

投稿: yamatom | 2010年11月29日 (月曜日) 18時50分

教え子(2002年卒)さん

皆さん元気に頑張っていると聞いていました。

ゼミ会の機会があったら教えてください。

投稿: 夏井高人 | 2010年11月16日 (火曜日) 20時31分

優秀な先輩や後輩の存在は、励みになります。
今度ゼミ会?でもしたいですね。

投稿: 教え子(2002年卒) | 2010年11月16日 (火曜日) 17時45分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 総務省:プロバイダ責任制限法検証WG(第1回会合)配布資料 | トップページ | AMDとIntelが協力してモバイルLinuxを推進 »