このブログは有害サイトか?
昨日,法とコンピュータ学会に参加してきた。
親しい方々と意見交換したり雑談したり,非常に有意義な一日だった。
ある方から,「夏井さんのサイトは有害サイトだね」と言ってからかわれた。
青少年にとっては理解不可能なので全く無害なのだけれども,成人にとっては有害なサイトなのだそうだ。
お褒めいただいたことを光栄に思う。(笑)
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ところで,昨日の学会のメインテーマは「青少年にとって有害な情報」ということで,最近の立法や東京都条例改正の動向などを踏まえて活発な議論が交わされた。
驚いたことに,ある報告者(東京都の審議会の委員)の報告によれば,「子供を守る」という主張を掲げている人々は,特定の団体に属する人々であり,かつ,その主張について「論拠を示す必要は全くない」し,「科学的な根拠を示す必要は一切ない」として,とにかく「規制しなければならない」との一点張りでヒステリックに主張しているだけなのだそうだ。
もちろん,私が都の審議会に居合わせたわけではないので伝聞に過ぎず,もしかすると誇張もあるのかもしれない。
しかし,仮にそうだとすれば,規制による弊害や副作用のことをきちんと検討せず,目的・効果の関係を正確に評価しないまま,単なる気分やノリのようなものだけで規制条例等を可決すれば,単にその特定の宗教団体を満足させるだけのこととなるということを十分に留意しなければならない。とりわけ,圧倒的多数の国民や市民の思想・信条の自由,表現の自由,(性的生活を含め)個人の私的な生活の自由が,特定の団体の信奉する特殊思想によって支配されてしまうことは,とても危険なことだ。
何となくわかったようなわからないような「子供を守る」というスローガンだけにだまされてはならない。また,「慎重な検討をしたほうが良い」という立場の人に対して,「子供を守る気がないのか?」といった筋違いの非難を加える者がもしいるとすれば,そのような者はファシズムにもつながりかねない極めて危険な人物であると評価するのが妥当だと思われる。
私自身は,「子供を守る」ということそれ自体に反対する気はないどころか,大賛成だ。
しかし,無菌人間のような子供を育てることはには大反対だ。所詮,世間は「生存競争」なので,厳しい環境の下でも生き抜くことのできる「逞しい子供」として育てること,そして,良いことも悪いこともちゃんと認識・理解でき,その理解に基づいて自分の判断を形成できるような人間を育てることこそが真に「子供を守る」ことになるのだと信じている。
学会が終了した後の懇親会において,堀部教授(元理事長)の挨拶があり,東京都の条例改正がなし崩し的になされてしまう前に,「いま一体何が起きているのかを正しく市民や国民に知らせるための臨時研究会を開催したらよいのではないか」との提案があった。それくらい切迫した状況にあるらしい。
マスコミは,この問題に関してノーコメントを続けている。そのうち,マスコミの報道の自由も大幅に制限されてしまう危険性が目前に迫っているかもしれないのに,それを感じとることができないとは,本当に日本のマスコミの姿勢には困り果てる。
あるいは,その特定の団体に既に汚染され尽くしているのかもしれないが・・・
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コメント
福原幸太郎さん
コメントありがとうございます。
自分が自分の子供を「逞しく」育てることができたかどうかはあまり自信ないです。でも,可能な範囲内で精一杯やってきました。たぶん私のほうが先に死ぬので,子供たちが将来どう生きていくのかを知ることはできません。だからこそ,親がいなくても一人前の社会人として自活できる人間になってほしいと思っているんです。
「幸福」というものについて様々な考え方があり得ると思います。その中のどれを選択するかはそれぞれの自由でしょう。「子供を守る」ということも「幸福」の一部に違いないです。その「守る」という意味のとらえ方や方法もまたそれぞれの自由でしょう。ある特定の団体が信奉する(たぶんその団体の指導者の)信念や理念だけが唯一正しいということなど絶対にあり得ないことだと思います。
人々はみんな個性があり,それぞれの自分の歴史の上に構築されてきた生活というものがあります。各人の個性や生活を尊重し合うことなしには,真の意味での自由な社会を維持することはできませんよね。
私は,自由を愛する人間だし,他人の信念も尊重するけれども私の信念も尊重してほしいわけですよ。「子供を守る」ということをどう考えるかに関しても全く同じです。特定の団体の特定の思想だけを強制されるようなことはまっぴらごめんです。その特定の団体の人たちだって私の信念を強制されることなど耐えられないことでしょう。お互い自由で平等なのだから,そこらへんはお互いに尊重するということでないといけないと思います。
ただし,誰がどうやったとしても,その「子供」は個人としての人格をもった独立の「人間」だということだけは忘れてはならないと思います。どんな親でもかつては子供だったはずです。その子供が様々な苦労や失敗を積み重ねながら「生きる」ということの意味と方法を少しずつ学び,成長して大人になっていく。そのような自然の営みを否定することは,人間そのものの否定にもつながることだろうと思います。
これからの時代はとても大変な時代かもしれません。国内的にもそうだし国際的にもそうです。
若い世代には,どんなに苦しい時代になっても,努力と工夫とによってそれを乗り越えていってもらいたいし,そのように逞しく生きることができる人材を育てたいと思っています。
投稿: 夏井高人 | 2010年11月23日 (火曜日) 16時18分
おじゃまします。
「子供を守る」と云うこととは、どういうことかを考えさせられました。私も親です。子供との接し方の中で教え、やって見せ、やらせる そして逆に教えられるという繰り返しの中で、子供の教育という中で考えてきました。そんなに、理路整然と理詰めで行動してきたわけではないですが。
我が子が幼いころ、危ないことをしようとしていた時、「危ないから止めろ。」と行った時、傍らにいた老人が、「やらせれば。」と一言。
しばらくして「止めると自分で痛さが分からない子供になるよ。」と私に助言してくれました。
はっと、しました。良いこと、悪いこと、危ないことの判断を出来るようになる経験値を得る機会を親が奪っている事を教えてもらったような気がしました。
先生の云われる、
≪厳しい環境の下でも生き抜くことのできる「逞しい子供」として育てること,そして,良いことも悪いこともちゃんと認識・理解でき,その理解に基づいて自分の判断を形成できるような人間を育てることこそが真に「子供を守る」ことになるのだと信じている。≫
この事ですかね。
法律や制度で無菌状態を追い求めることには限界もあるし、仮に一時できたとして仮にですよ。
そこで育つと無菌状態で育った人間は無菌状態が一つでも崩れた時には生きれない。。。
悲しい将来しか見えません。
<蛇足>
今、我が子も親から離れて行き、また、離れようとしています。逞しい判断が出来る人間であるか否かはこれから証明されるでしょうが。逞しく生きてほしい。。。
投稿: 福原幸太郎 | 2010年11月23日 (火曜日) 12時50分