事実認識
インターネット上では様々な情報を入手することができる。その分量はとにかく凄い。
しかし,数によって幻惑され,質の検討・評価がおろそかにされてしまいがちなのではないだろうか?
情報と言っても,文字は文字に過ぎないし,画像は画像に過ぎない。
例えば,特定の種類の希少ランの解説を何万文字も読み,写真を何百枚も閲覧したとて,本質を理解することは困難だ。現実に栽培品の苗を入手し,何年にもわたって実際に育ててみないと本当のことはわからない。
実際にそういうことをやってみて思うことは,種それ自体としては非常に強健で栽培可能であるにもかかわらず絶滅危惧種として指定されている野生ランが非常に多いということだ。要するに,絶滅の「危惧」があるのは自生地という物理的な場所なのであって,種それ自体ではない。「絶滅危惧種」の指定は,特定の種類の植物が絶滅の危機に瀕している真の理由を隠蔽するための便利な口実として社会的に機能している場合がある。
同様のことは,非常に多くの法律問題についても当てはまる。
明治大学法科大学院の学生諸君には,決して観念だけの頭でっかちの法律家にはなってもらいたくない。たとえそれが自分にとってどんなに気に入らない事実であっても,常に事実を直視し,検証し,納得しながらルールの適用を検討するという科学的・批判的な態度を維持してもらいたいものだと願う。
どんなに優れた頭脳を持ち,六法全書をすべて暗記していたとしても,それはコンピュータによって処理されるデータベースと同程度の頭脳をもっているということにしかならない。もちろん,暗記しなければならないことはたくさんある。しかし,それだけではプロの法律家としては不十分だ。
法律家は,判断者の一種として存在する。
常に事実を直視し,正確にとらえた事実を前提に,適用可能な法を探索するのでなければ正しく判断することができない。思考する前に適用すべき法を選択しておき,事実をゆがめてその法に無理やりあてはめることは絶対に許されない。
法学教育において,「要件事実」とは「法律要件に該当する事実」と定義される。この定義それ自体は正しい。しかし,「該当する」とは,法に事実を無理やりあてはめることを意味するのではなく,事実を直視し,その事実に適用可能な法を検討し,取捨選択した後に整理してみると,結局,選択された法の要件に,必要な事実が当てはめられているのと同じ状態が発生していることを比ゆ的に表現しているのに過ぎない。つまり,思考の順序と表現とが逆になっているのだ。このことは,昨日の講義で「結論」と「理由」との関係について説明したところと全く同じだ。実際の思考過程は帰納法的になされることがあるが,その表現は演繹的になっていることがある。しかし,そのように表現が演繹的である場合であっても,実際の思考経過まで演繹的であったということを意味するわけではない。また,思考経過が演繹的である場合でも,実際には仮説をたてそれを検証するというプロセスとして存在しているのであり,仮説の検証の結果,その仮説が成立しないことが判明すれば,その仮説は捨てられ,別の仮説が検証される,といったことが繰り返されているのだということを正しく理解する必要がある。
夢を実現し,立派な法律家になることができても,「自分は何でもわかっている」と傲慢になることなく,「事実を直視する」という姿勢を常に忘れないでもらいたいものだと切に願う。
かつて古代ギリシア・デルフォイのアポロン神殿に刻まれていたという箴言を,繰り返し想起し続けるべきだろう。
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