ニュージーランド:FacebookやTwitterの普及により,未成年者に対するインターネットエチケット教育の重要性を指摘する声が高まる
下記の記事が出ている。
Schools teach Twitter and Facebook etiquette
Bay of Plenty Times: 21st July 2010
http://www.bayofplentytimes.co.nz/local/news/schools-teach-twitter-and-facebook-etiquette/3917621/
これまで何度かニュージーランドを訪問して様々な国際会議に出席した経験では,「ニュージーランドは,比較的保守的な気風をもった国だ」と感じられたので,もしそのとおりだとすれば,この記事で報じられているような動きが日本でもストレートに参考になるわけではないと考えられる。
しかし,日本での日常を見渡してみると,インターネット以前の問題として,きちんと挨拶したり自分の身の回りを片付けたりする生活習慣がついていない者が目に付く。したがって,常識的には何らかのかたちでの対処が必要なことはそのとおりだろうと思う。問題は,そのような対処を学校に求めても「当該児童の家庭が駄目な場合にはどうにもならない」という現実を知り,かつ,事実は事実として認めることだ。また,日本でもニュージーランドでも学校教員によるインターネットがらみの非違行為が発生しており,このことが教員の発言や指導の説得力の低下を招いていることも否定できない。さりとて,不良教員の浄化などできるわけがない。この点に関する抜本的な対応策を考え続け,腹案としては一応もっているのだけれども,その実現可能性はほぼゼロだし,へたに公表すれば世間から轟々たる非難を浴びそうなので,死ぬ数日くらい前になったら公表し,それから死のうと思う。それまでは,腹の中に納めておく。
他方,移民等による多人種化等が促進されると,このような傾向が更に強まると思われる。ニュージーランドでは中国などからの移民が非常に大きなコロニーを形成してしまっている地域がある。当初は文化大革命等による迫害を逃れてきた知識人や富裕層等による部分社会だったらしいのだが,その後大きく変容しているようだ。ところで,一般に,文化が異なるとそもそも共感できる部分が乏しくなるのが普通であり,言葉による意思疎通ができない場合もあるし,言葉のニュアンスについての誤解や無知から生ずるトラブルもある。外国人が非常に少数である場合には居住地国内で生き延びるために彼らも真剣に言葉を習得し文化を受容しようとするだろうが,一定規模以上の集団ができてしまうとそのような心理が機能しなくなってしまうからだ。
もちろん,このことは自国民だけで構成される部分社会でも全く同じで,当該部分社会の中で,状況判断能力や言語処理能力や自己抑制力等の乏しい者が一定規模以上の集団をつくると,当該社会において一般に承認されているはずの社会常識に従って行動しようという心理がその集団では全く機能しなくなってしまうことが多々ある。
以上は日本についても同様に妥当する。
建前は建前として大事なのだが,結局,問題が起きる主要な要因を丁寧にさぐっていくと教育や指導によってはどうにもならない要素が多いということに気づくことがしばしばある。
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