法科大学院での「サイバー法」の授業
私が法科大学院という制度そのものに対して批判的であり,可能jな限り速やかにこれを廃止して旧制度に戻すべきだと主張しているということは周知のところであり,このブログでも何度か書いたことがある。しかし,現実に法科大学院が存在しており,そこで熱心に勉学をする真面目な学生が大勢いることもまた事実であるので,明治大学法科大学院発足当時,納屋教授(現学長)からの強い求めに応じて法科大学院での講義を担当することにした。以来,ずっと「サイバー法」と「法情報調査」の科目を担当している。
明治大学法科大学院において「サイバー法」という科目は,もちろん必修科目ではなく任意選択科目だ。これは当然のことだろうと思う。また,法科大学院の学生は,基本的な法律科目(特に民法)をしっかりと習得しないと,試験に合格できないことは当然として,合格後も法曹としてちゃんと仕事をしていくことができないので(←民法に精通していない「法律家」など,概念矛盾そのものであり,「法律家」と自称することは許されないことだと信じている。),サイバー法の受講学生に対してもそのように説明し,かつ,民法をはじめ基本的な法律に精通した後になって初めてサイバー法に習熟することができるのである以上,私の講義を受けただけでサイバー法を理解することはできないと説明し,そして,余裕のある学生だけ受講するように勧めている。それでも毎年熱心な学生が受講してくれるので,私なりに工夫して最新の内容で講義を実施するようにしてきた。おそらく,日本だけではなく世界的にみても最先端の内容を含む講義となっているだろうと自負する。
ところで,一般に,サイバー法の世界は,これまでに増して非常に難しい状況の下にある。
それは,(1)当初のインターネットのような技術的要素だけではなく,より抽象的なモデリング能力のある者にしか理解できないような技術的要素を含む事柄が増えてきてしまっていること,(2)従来の伝統的な法概念だけでは説明できない現象が増えており,仮に伝統的な概念で説明しようとするとその定義の組み換えが必要となることがしばしばあること,(3)非常に重要な判決例が世界規模でどんどん出されるようになってきているけれども,それを理解する(=学生に理解させる)ためには,その国の法制度全般について(日本の法制度との相違点を正確に認識し,文化的・歴史的背景を踏まえながら)きちんと把握する必要があり,その分量が非常に膨大となってきていること,(4)平時の法と戦時の法との混在を明確に認識しながら課題を理解し,現実的な解決策を考え出さなければならないことなどのことに起因している。
法学者は,原則として,理屈をこねるのが仕事だ。
しかし,サイバー法の領域では,単に理屈をこねるだけではなく,現実的な解決策も提案できるのでなければ全く役にたたない。しかも,伝統的かつ古典的で苔むした法学説や発想方法などがびっしりと敷き詰められている場所でそれをしなければならないという苦しさがある。
当然,悪口や批判も耳にすることになる。もちろん,受講学生も耳にしているだろうし,積極的に悪口や批判をする学生もあるだろう。
私は,(私に対するものである限り)悪口や誹謗中傷したりすることも「表現の自由」の一部として法的保護するつもりなので,一切反論しない(←私以外の者に対する誹謗中傷については,本人がそれを受容または宥恕しているのでない限り,名誉毀損その他の違法行為を構成することとなるので,求めがあれば処罰や損害賠償請求のために最大限の尽力をしてきた。)。これは,私自身が「表現の自由」を強く求める人間であるので,言行一致を貫くために決定したひとつの態度だ。
ところで,その悪口や誹謗中傷等は,現実の社会の中では,より巧妙に別の目的で用いられることもある。法科大学院の学生諸君は若いので,そういう微妙なことを知らないことが多い。世間には,頭脳の優秀さや氏素性のようなものとは無関係に,腹黒い人間や基本的に自己の利益のことしか考えない人間が多数存在している。
さて,昨日は,2009年度における「サイバー法」の講義最終日だった。
そこで,受講学生諸君が「司法試験に合格し,将来立派な法律家として大成してもらいたいものだ」と心から切望するがゆえに,上記のようなことも含め,今後考えなければならないことなどを含めて講義をした。
2010年にも同じ科目の講義を担当する。私がどのように主張しようとも法科大学院制度は定着してしまうのだろうから,定年までずっと担当することになるかもしれないし,途中で別のもっとよい講師と交代することになるかもしれない。だが,毎年受講を希望してやってくる学生にとっては,私との教室でのお付き合いは一生に一度のことであり,もう二度とめぐってくることのないことなのだ。したがって,毎期の講義の最終日は,その期の受講学生にとっては,常に,私の最終講義のようなものとして位置づけられることになる。
だから,今後も,どの科目においても,最後の講義日には,それを受講する若い人たちがこれからの世界で生きていく上でちょっとでも役立つかもしれない「何か」を伝えることができるような授業を続けたいものだと思っている。
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コメント
キメイラさん こんにちは。
私が知っている企業でも似たようなことがあったところを知っています。ある臨界点のようなレベルを超えた結果,一種のパニックに陥ったのでしょう。そこまで自分を追い詰めちゃ駄目ですね。壊れないように,何らかのやり方で自分に蓄積しつつあるストレスを他に逃すための方法を身につけるようにすることも「生きる」ために必要なことの一つですね。
投稿: 夏井高人 | 2010年2月 1日 (月曜日) 08時54分
夏井先生,ご応答ありがとうございます。m(._.*)mペコッ
>相手の人と現実に面と向かって罵倒・嘲笑できるだけの豪胆(または無謀)な人は,現実にはとんどいません。
ライバル企業や契約解除した顧客発信の怪文書なんかも同じです。発信元の内部告発から珍しく怪文書の作成者が判明したとき,「まさか」と思う寡黙で内向的な元社長でした。根はいい人なんですが(だから倒産したという人が多いくらい),倒産寸前に自暴自棄か苦し紛れとなり,怪文書発信で私を含む主要な債権者に責任転嫁を図ったらしく,倒産と共に家族を残して蒸発されてしまいました。日本のどこかでひっそりと生きてくれていればいいのですが……。
投稿: キメイラ | 2010年1月31日 (日曜日) 08時35分
キメイラさん こんにちは。
人間には良い面と悪い面が常に共存しており,そのどちらが優勢になるは予測できないことがあります。何らかの条件が充足すると悪い面ばかりでてくることもあります。例えば,通常はごく普通の人なんだけれども,何らかの理由で大金を手に入れたり,職場で権力を得たりすると,とたんに横暴になってしまう人がいます。
「特定の個人に粘着して,学歴や所属団体や宗教や出生地まであげつらって,嫌味・皮肉・当て擦り・罵倒・嘲笑する方」は,そのようなことをするのに使うことのできる様々な武器(凶器)がネット上にふんだんあるものだから,自己の(罵倒・嘲笑したいという)欲望を抑えきれなくなってしまうのだろうと思います。相手の人と現実に面と向かって罵倒・嘲笑できるだけの豪胆(または無謀)な人は,現実にはとんどいません。
そのような欲望の大半は,要するにその人が生きている環境(空間)での欲求不満にあるだろうと思います。自分を満足させることができる別のことに没頭でき,現実にそれによって幸福感が得られているのであれば,他人を罵倒・嘲笑している暇はないし,ネットにアクセスしている暇さえないかもしれません。要するに,不幸な自分という存在を認めて欲しいという潜在的な欲求の一つの発現形態なのだろうと思います。でも,罵倒・誹謗される人にとっては大いに迷惑ですし,かなり大きな実害があります。
もしこのようなタイプの行為が犯罪(名誉毀損,侮辱,業務妨害等)を構成する場合には,やはり犯罪として対処していくのが本筋なんですが,現実の日本の警察のキャパは十分なものではありません。そのため,なかなかうまくいきません。つまり,「このような犯罪を実行してもたいていの場合には処罰されない」という状況が恒常的に存在しています。だから,ますますもって無責任な罵倒・誹謗中傷などが横行してしまうのでしょうね。
投稿: 夏井高人 | 2010年1月31日 (日曜日) 07時07分
夏井先生,ご応答ありがとうございます。o(_ _*)o
会社のノーマルな経営でも,少額債権の取り立てが経費倒れゆえに損金処理せざるを得ないのと似ています。従業員を使えば経費がかからないからいいと言う方もいますが,従業員の時給換算分は経費が累積するわけで,他の間接経費(通信費等)を積算すれば,50万円以下の債権は踏み倒されたら,詐欺でもない限り刑事事件化できないので警察も当然動かず,泣き寝入りしかありません。
小倉先生が,表現形態や主張ロジックや動機は別としても,一般市民のネット誹謗中傷の被害に心を砕くのは当然だと思います。ストーカーのようにネットを巡回して,「ブログ」,「サイトBBS,はてなブックマークやツイッターまで駆使して特定の個人に粘着して,学歴や所属団体や宗教や出生地まであげつらって,嫌味・皮肉・当て擦り・罵倒・嘲笑する方も内外を問わず現実に存在するからです。
投稿: キメイラ | 2010年1月31日 (日曜日) 00時23分
キメイラさん こんにちは。
会社での誹謗中傷怪文書の類の例はいくらでもありますね。経営者に不満を抱く従業員や元役員などの事例が裁判例として公表されることがありますが,それは,弁護士のコストをかけてでも一罰百戒的な効果を狙っての経営判断ということになるのでしょう。
被害者である企業等が弁護士コストを負担する余裕がないときは,キメイラさんのコメントにあるように,吸収できるものだけ吸収したあとはゴミ箱にポイ捨てということになるのが普通だと思います。
それでも企業はまだ良いのだと思います。
個人が被害者である場合,相当強い人は別として,一般的には本当に一方的に被害者にさせられるだけでおしまいというケースが少なくないです。仮に被害者に弁護士コストを負担する能力があるとしても,匿名での誹謗中傷行為の場合,小倉先生が常にご指摘のとおり,加害者を見つけて損害賠償を請求することが難しい場合があります。法学部で教えている理論としての「正義」の実現と現実に実現可能なものとしての「正義」との間には相当の乖離があると言わざるを得ず,なかなか難しいものだと痛感する毎日です。
そのような場合のために警察が存在し,国民が納めた税金でもって捜査を遂げ,起訴し,刑務所にぶちこむなり罰金をとるなりするわけですが(←加害者が無資力で罰金を支払う能力がない場合には,所定の期間だけ労役場に収容します。),警察にとって些細と思われるような事件についてはなかなか動いてくれないというような事情もあり,これまた法理論どおりにはいきません。
結局,弱い立場の被害者は泣かされるだけ泣かされておしまいということになってしまいかねません。どうにかしなければなりませんね。
投稿: 夏井高人 | 2010年1月29日 (金曜日) 13時23分
夏井先生 ご応答ありがとうございます。m(_ _)m
泡沫企業を経営してますと,怪文書や誹謗中傷ビラが来ることがあります。IT化されてない方々からw 昔は露骨な個人攻撃ホムペサイトもあったのですが,最近はさすがに少なくなりました。
表現の自由の枠外だから,とっちめてやりたいと思う時もありますが,弁護士費用や警察の捜査への協力など手間暇や直接経費を考えると高コストですし,捕まった犯人が無職の多重債務者(倒産企業オーナー)で民事勝訴判決書はカラ手形で終わることも。
そんな経験から,為にする誹謗中傷や悪口でも得るところはガメツク吸収して,後は便所にポイ捨て放置するようになりました。ご批判はあろうかと思いますが回収見込み経費性や損益分岐点が極めて悪いからで,低コスト薄利で喰っているIT泡沫企業の宿命です。(^^ゞポリポリ
投稿: キメイラ | 2010年1月29日 (金曜日) 12時50分
キメイラさん コメントありがとうございます。
世間には,他人を蹴落とすために虚偽内容の風説や意図的に誤解を発生させるような情報を流布する人がたくさんいます。競争相手でない場合でも,成功しそうな人を奈落の底に落として楽しむためにそうする人もいます。単純に嫌な思いをさせるためだけにそうする人もこれまたたくさんいます。そういうのは悪口でも批判でもなく,単なる犯罪ですね。これらはいずれも表現の自由の枠外の出来事なので,処罰しかないです。
が,キメイラさんがおっしゃるとおり,悪口や批判の中には「正しい部分」が含まれていることがあり,それゆえに悪口や批判として成立可能なのだろうと思います。正当な批判として受け止めるべき部分はきちんと受け止め,自分のための栄養(肥料)として吸収してしまうことができるだけの度量のようなものがほしいですね。^^
投稿: 夏井高人 | 2010年1月29日 (金曜日) 08時36分
社会で生きて仕事をすれば,為にする悪意も含めて批判や中傷から逃れられません。明後日向いた印象操作は別として,一見悪口に見える批判や誹謗にも,参考になったり真摯に反省すべきものもないわけではありません。悪口誹謗であっても,そこから学んで自分の人生の肥やしにすれば,最高の黙示の反論かも知れません。
副次的に表現の自由を最大限尊重することになるので,「クレームこそ最上顧客・最良マーケティング」と携えることが大事かと思います。特に,同じ批判が違う角度や違う人から来たら,それは十中八九自分が反省すべき点かと思います。逆も真なりですけど(笑。
投稿: キメイラ | 2010年1月28日 (木曜日) 22時58分