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2010年1月10日 (日曜日)

英国:次世代ブロードバンドの完成のため,全世帯に課税

英国政府は,政府主導により次世代超高速ブロードバンドの導入と普及に努めている。しかし,どの国でも同じように,問題は予算だ。そこで,英国政府は,この次世代ブロードバンドの完成のため,全世帯に対し,課税をして費用をまかなうという方法を選択したようだ。

 Government launches consultation on next-generation broadband
 Guardian: 7 January 2010
 http://www.guardian.co.uk/technology/2010/jan/07/broadband-digital-britain

 £6 broadband tax will be law next year
 silicon.com: 9 December 2009
 http://www.silicon.com/management/public-sector/2009/12/09/6-broadband-tax-will-be-law-next-year-39699385/

このようなタイプの課税についてはもちろん反対意見があるだろう。それはそれで適正な課税という観点からちゃんと議論すべきだ。

そのような議論とは全く別に,ある国が「何を重視するのか?」という観点からの考察も有用ではないかと思われる。

英国政府にとって,次世代ブロードバンドが国としての生死を分けるという程度にまで重要なものだと推測することは可能だ。そうでなければ,批判を受けることが必至な新たな課税をしてまで推進しようとはしない。

日本政府は,子供手当てを重視している。重要政策というよりも,選挙公約だからだという側面が強すぎるようにも思われるのだが,よく判らない。

私は,このようなタイプの問題を考えるときには,歴史をひもとくことが大事だと思っている。

日本国では,明治維新以来第二次世界大戦の終結に至るまで,日本の庶民が経済的に豊かだったことは一度もないかもしれない。現代のレベルと比較すると,極貧に近い状態がずっと続いた。そうした貧乏で子沢山の家の中から,ときどき非常に優れた人材が出てきて,経済の面でも学問の面でもその他の面でも大きな成果をあげてきた。そして,優秀な人材に対しては集中して国家予算を提供したり,民間の資産家が(場合によっては自分の養子として)資金援助することより,守り育ててきたのだ。そこには,未来の国家を担う優れた人材を育てるという強い国家意思または社会思想のようなものを感ずることができる。

現代社会では,すこぶる奇妙な平等主義がはびこっている。人間は,法的には平等に取り扱われなければならないが,現実に平等であるはずがないし,努力しているかしていないかの別を無視し,現実に生産的であるか非生産的であるかの別を無視して機械的に経済的平等を実現しようとすれば,本当は,努力している人間や生産性の高い人間を不当に差別するのと同じ結果をもたらすことになる。そのため,現代では,戦前のように乏しい予算を特定の分野や特定の人材だけに集中するというやり方が難しくなっているかもしれない。

また,明治維新以来100年以上もたつので,いわゆる「学閥」のようなものができてしまい,その身内だけで貴重な国家予算を分け合うような社会慣行もできてしまった。明治維新のころにはそれがなかったから,いまよりもずっと平等な社会だったに違いない(旧薩長の藩閥が支配していた旧日本軍でさえ,旧薩長出身ではないのに自らの実力によって相応の地位を得た人がたくさんいる。)。

さらによく考えてみると,根本的にものごとを改善しようとすると,安定した秩序の中での予定調和を期待して生きている人々を犠牲にしない限りどうにもならない部分が多すぎるようにも思う。

結局,何もできないという結論になってしまいそうだ。

こういうことは本当は誰でもうすうす感づいていることの一つだ。そこに社会全体の中にはびこる閉塞感のようなものの根本原因がある。

成熟した社会とはそういうものなのだろう。

成長過程にある社会には社会としての安定感はぜんぜんない。そこでは,明日の生活を誰も保証してくれないだけではなく,うっかりすると餓死が待っている。だから何もなくてもとにかく生きるために考えることになる。日本の戦後復興もまたそのような文脈の中から考えることができるのではないだろうか。

結局,活力とは,そのような不安定さの中からしか生まれてこないものかもしれない。その意味で,活力と安定とは相互に矛盾する要素であると理解するのが正しいのだろう。

そして,人間の活力の多寡には当然非常に大きな個人差があり,その大半は生まれたときから遺伝子によって決定されてしまっているので,結果としての経済的成功または経済的不成功もまた必然的に大きく分かれてしまうことになる。つまり,活力を重視する政策を採れば,当然の結果として,大きな貧富の差が生じる。現代の中国がまさにその見本というべきだろう。「貧富の差の発生を当然の結果であると承認した上で,経済的活力を最も重視するような経済政策」が圧倒的多数の国民からは結局支持されなくなってしまう理由はそこにある。
もちろん,そのような政策は,一時的には支持を得ることができることがあるかもしれない。「誰でも豊かになれる社会を築こう!」それが一般的に用いられるスローガンの一つだ。日本では「所得倍増論」がそれに相当するだろう。しかし,それは,「自分も成功するかもしれない」または「成功者から利益の分配を受けることができるかもしれない」または「成功者に寄生して生きていけるかもしれない」という期待感があるからだ。
ところが,金融商品の投資に頼る経済政策の場合,得られる利益は投資家だけにもたらされ,社会に広く配分されることがない。ここらへんが製造業中心の社会とは異なる。製造業が成功すれば,経営者が金持ちになれることは当然のことではあるが,そこに働く従業員も生活もまた安定を保証され,数多くの下請企業が栄える。しかし,投資だけによる場合,国家全体としては富が増えたようにみえる場合でさえ,現実には投資家しか利益を得ることができない。しかも,得られた利益は再び別の投資にまわされるのが普通であり,かつ,その投資は投資先の企業や個人を助けるという趣旨ではなく自分の利益獲得だけを目的とする短期的なものであるので,結果的に社会内を循環し社会全体を潤すことがない。
だから,日本の普通の庶民は貧しくなるだけの結果となって現在に至っている。そこにはごく一部の投資家を豊かにするという政策しかなかったから,庶民が豊かになる政策は何も残されてない。

政治とは本当に難しいものだと思う。

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