Appleタブレットの登場で電子出版は盛んになりそうだが・・・
下記の記事が出ている。もっともだと思う。
Appleタブレットは出版業界を救えない――アナリスト
IT Media (REUTERS): 2010年01月27日
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1001/27/news055.html
Few events can steal the thunder from an Apple Inc (AAPL.O) quarterly earnings day -- an Apple product launch is one of them.
REUTERS: Jan 26, 2010
http://www.reuters.com/article/idUSTRE60P6AX20100126
日本の場合,一般に,電子ブック等で流通しているコンテンツの数がかなり限定されているという問題もあるが,そもそも「紙媒体」に対する愛着が強い国民性をもっているかもしれない。書籍は「コンテンツ」という部分だけではなく,書籍の装丁や質感などを含めて全体的なものとして存在している一つの芸術作品だという理解の仕方がそこにはある。このような「とらえ方」または「感性」のようなものは,もしかすると世界の孤児となりつつあるかもしれない。
しかし,私は,あえて再び強調したい。すなわち,「電気がなくなればすべて消え去ってしまうようなものは文化ではない!」と。同じことは,危機管理という面でもいうことができる。例えば,停電になるとすべての機能が停止してしまうような政府機能(←国防,警察,消防,緊急医療などを含む。)など,お笑い以外のなにものでもない。
紙の書籍であれば,たとえ世界中が停電になってしまったとしても,蛍雪によってそれを読み続けることができるのだ。
いずれ何年かすれば,「紙への回帰」のような現象が始まるだろう。世界の出版業界はそれまで持ちこたえることはできない。日本の出版社も大部分はそうならざるを得ないだろう。
現在,出版点数の中でも最も大きな部分を占めている「消費されるタイプの出版物」は電子出版でよい。どうせ短期間で消費され,消えてしまうものなのだから。それが歴史に残ることはない。
けれども,電気なしで長期保存する価値のある出版物も多数存在する。そのような価値ある出版物の販売量が大きく落ち込んでいるというところに最大の問題がある。出版社は,どうしても,(仮にその内容が低劣であったとしても)売上額の大きそうな書籍の出版に賭けることになってしまう。国民の多くが硬派の書籍に興味を示そうとしなくなってしまっているという現状では,この傾向が変化することはちょっと見込めないだろう(←インターネットで調べれば専門的なことでも何でもすぐに分かるという錯覚がそれを促進しているという面はある。本当に理解している人であれば,それが単なる俗説に過ぎず,インターネット上には真に価値のある情報がほとんどないという無残な事実を即座に理解することができる。お金をかけないで,真に価値のある情報を入手することは基本的に不可能なことだ。)。
したがって,真に価値ある学術系出版物等については,何らかのかたちでの出版資金援助のような仕組みを構築していくことがとても大事になっていくのではないだろうか?
しかし,そのような状況にもかかわらず,何社かの日本の出版社は,書籍出版社として生き残ることができるかもしれない。これが「日本」という特殊な場所の本当の意味での「真価」であり「底力」であり「伝統」のようなものなのではないかと思っている。
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コメント
Naoさん コメントありがとうございます。
伝統芸能の世界では,たしかに後継者がいないことによって復元不可能な事態に陥ることがありますね。
伝統芸能にはパトロンが必要です。しかし,現在の日本は実質的には社会主義国の一種であり,お金持ちが増えてパトロンになることが非常に難しくなっています。またパトロンになることができるお金持ちや企業があっても,景気が悪くなったり倒産したりすればそれまでです。
それゆえ,後世に伝承すべき技芸などについては税金を投入してでも後継者が食っていけるような環境を維持する必要があるのだろうと思います。
ところで,「出版」については,私は,伝統芸能だとは思っておりません。紙を束ねた物品の工業生産と流通に過ぎないと思います。また,人間はデジタル信号ではなく,現実に生きている物体の一種ですので,現実の生活の中で必須の物質である紙とインクの製造及び印刷技術が廃れてしまうということはちょっと考えがたいです。書籍それ自体をアートに高める装丁の技術は伝統芸能の一種であることがあるかもしれませんが,それが廃れても別の装丁スタイルのようなものが誕生するでしょう。もともと絵画や表紙デザインなどの仕事は,その作者の個性が強く反映される仕事なので伝承不可能だし,逆にそっくりのものを伝承させれば著作権侵害となってしまいますから伝承させるわけにはいかないんですよ。そのような技芸を廃れさせ,作品の希少価値を高めるために著作権法は存在しているという側面があることは否定できない事実だと思います。
ちなみに,私自身は,和紙を折りコヨリで綴じて製造する和書のようなものが好きで,小さいころに亡き父から習い,今でも自分で作成することができます。こういうものこそが本物の書籍の「カタチ」だと信じています。でも,世間では一般にはそうは思われないでしょうし,Naoさんがご指摘のように,そんなことにこだわるのはあまり意味のないことかもしれませんね。(笑)
投稿: 夏井高人 | 2010年1月29日 (金曜日) 08時49分
貴ブログに限らず、紙か電子書籍かを巡る議論を見かけますが、文章なり情報なりをどんな媒体で残すかを議論できるということが非常にうらやましく思います。
私は、一時期、伝統芸能の保存について(直接ではないにせよ)関わったことがあります。その芸能は、国の重要無形文化財に指定されたにもかかわらず、後継者がいないため途絶えてしまうことが懸念されています。多くの写真やビデオを撮影し、膨大な資料を残しても、後継者がいなければそれまでです。
紙か電子書籍かの議論は、伝統芸能を地元の人が引き継ぐのか、よそから来た人が引き継ぐのかという議論であり、後継者がいるうちはこだわることができますが、後継者不足となるとそうも言っていられません。
あまり媒体にこだわらず、文章や情報そのものの価値を大切にしていってください。
投稿: Nao | 2010年1月28日 (木曜日) 11時47分