総務省:報通信審議会情報通信技術分科会産学官連携強化委員会推進戦略WG(第1回)配布資料
総務省のサイトで,下記の資料等が公開されている。
情報通信審議会 情報通信技術分科会 産学官連携強化委員会 推進戦略WG(第1回)配布資料
総務省:2009年10月23日
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/policyreports/joho_tsusin/sangakukan/20257.html
一読して思うことは,「かつてのマルチメディア振興策と同じような誤りを犯しているのではないか?」ということだ。
ある情報基盤を整備し,そのために巨額の資金を投入したとしても,それだけで人材が育つわけではない。人間の才能というものは,資金提供や教育によって生まれるものではないからだ。もともと才能のない者にいくら資金を投入しても何も育たない。特にコンテンツの生成に関してはそうで,いくら環境を整備してもコンテンツの供給者が存在しないのではどうにもならない。ところが,真に才能のある者を見つけ出し,育成するのに適したように社会はできていない。たまたま才能のある者が存在していたとしても,「搾取の対象となるだけ」というのが哀しい現実ではないかと思う。結果的に,才能のある者にとっては,低賃金で長時間労働という状況からいつまでたっても抜け出せない社会だけが持続することになる。
ここらへんの問題を解決しようとすると,ほとんど革命と同じ程度に社会全体を改造してしまわなければならなくなるだろう。それによって社会の平穏と安定が損なわれてしまうことが絶対に避けられない。資本の再配分が社会の根本的なところで実行されてしまうからだ。
そこで,新たな道を探し出さなければならないことになるのだが,結局のところ,才能があって賢い人は,日本以外の国で自分を実現しようと考えることになるだろう。才能があっても開花させることができず,職にありつけても低賃金であり,たまたま成功しても上手に買収されてしまったり租税負担や人件費の負担に押しつぶされてしまったりする可能性が高い国では,魅力を感じないのが当たり前ではないかと思う。
日本は,本当に狭い国土に信じられないくらい大勢の人々が住んでおり,しかも,その大半は高額の所得を得ていない。したがって,ごく少数の高額所得者(個人及び企業)が社会全体に飯を食わせる役割を果たさなければならないのだけれども,飯を食わせてもらっているほうは「当然のこと」と思い込んでおり,感謝の気持ちなど微塵もないし,格別に恩典があるわけでもない。こういうことでは「飯を食わせたい」と思う企業者など出てくるはずがない。
社会における「格差」の問題は非常に重要な問題だ。できればみんな豊かであったほうが良いに決まっているし,この私だって可能であれば豊かになりたい。しかし,社会全体に存在している「富」が希少になりつつある状況の下では,その奪い合いが発生するし,社会全体に富を分配することが不可能な社会状況が生ずることになる。
結局のところ,何らかの方法で社会全体に存在する「富」の総量を増加させ,何もしなくてもそれが溢れて社会の中を還流するようにするしか方法はないと言える。「国」というものを考える場合,富の蓄積と再配分が最も大事なことになることは言うまでもない。
その当たり前のことをきちんと理解しなければ,結局,ICTにしろ何にしろ国の振興策が功を奏することはないだろうと思う。
なお,上記の公表資料の中には教育関係でICTが遅れているという趣旨の指摘がある。これは誤りだと思う。かつての情報化推進のときと同じように,コンテンツの作成だけが大事になってしまい,それに多大の時間を食われてしまう結果,コンテンツの内容である学識を深め価値を高めるための時間が損なわれてしまうということが起きてしまうだろう。そのようなコンテンツは「ないようがないよう(内容が無いよう)」と言われてしまうものになってしまうか,または,他人のコンテンツのパクリだけになってしまう。
教育内容である学問それ自体が,実は自明でないことを多く含んでおり,本当は判らないことばかりなのだということを理解すべきだ。そのことをちゃんと理解することができれば,教授にもっと資金と時間を与え,自由自在に研究と思索に打ち込めるようにしなければ駄目だということを理解することもできる。
比喩的に言えば,野菜の苗を植えて育てる前に畑をきちんと耕し,肥料を与え,良い土壌をつくらなければ全然だめで,何もない土だけの状態のときが最も大事だということをいかに理解できるかにかかっているとも言える(←生粋の都会人にとっては,そのような発想それ自体が無理かもしれないが・・・)。
おそらく,このことは,企業や官庁内の研究職やエンジニアにとっても同じように妥当することではないかと思う。
怠けているように見えても,本当に才能のある者は人知れず新しい「何か」を生み出し,育ている。もちろん,怠け者のように見える者の中には,本当に怠けてある者もいるだろうし,あるいは,才能が全然ないために,何かを生み出したくても何も生み出せない者もあるかもしれない。
しかし,真に才能があって意欲を有する者にとっては,「怠け者」として過ごしている時間が非常に重要なのだ。
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