児童自らが個人情報を開示してしまうことによる犯罪被害
国(文部科学省)は,初頭中等教育において,児童が積極的にITを活用し情報発信をすることを推進するような教育方針を維持してきた。テクニカルな面しか教育してこなかったことや,そもそも「教育の根幹」にかかわる部分には何も配慮をせずにそのような教育を推進してきた結果としての弊害が目に付き始めている。
例えば,児童が自らの個人情報をブログや掲示板などに開示してしまうために,その個人情報の開示が加害行為を誘発してしまうことがある。児童ポルノや児童買春などの事例では,児童の個人情報をもとに加害者が児童の所在等を探索することがしばしばある。他方では,誹謗中傷の目的,あるいは,何か問題が発生するのではないかということを全く配慮せずに,他の児童の個人情報や画像などをブログや掲示板にアップロードしてしまうような事例も多数ある。
“個人情報公開”子供のネット犯罪被害も多発
産経ニュース: 2009.5.28
http://sankei.jp.msn.com/economy/it/090528/its0905280122000-n1.htm
これらの問題について,いわゆる「ITの専門家」と自称する人々は,「情報倫理」の重要性を訴える。そのこと自体は間違いではないかもしれない。しかし,ものごとの本質から完全に目をそむけているので,絶対に問題の解決にはつながらない。
ネットであれ現実社会であれ,人間は,動物である以上,生存本能に基づいて生きており,各自がすべて生存本能を有している以上,常に生存競争にさらされ続けることになる。
したがって,「自分の隣人は,常に潜在的な敵」という事態が常に発生し続ける。それゆえ,隣人に対しては,常に警戒し,冷静に観察し,絶対に信頼してはならず,自分に害となる結果が発生したときはいつでも効果的かつ合法的に反撃できるように周到に準備し訓練を怠っておかなければならず,相手に自分の弱点を知らせないため,自己についての正確な情報は絶対に公表しないようにし,社会は決して自由でも平等ではなく,自分の夢を実現できる者は極めて少数であり,理念と現実とは全く異なるだけではなく,ほとんどの場合において理念は空想に近いものだ」という当然のことを理解する必要がある。このような当たり前すぎることをちゃんと教え,強い個人を育てるのが教育の本質でなければならない。
しかし,現実には,何の工夫も努力もしなくても世の中は「平和」であり,人々は当然に「自由」で「平等」であり,みんな「善人」で「仲良し」だ,と虚偽のことばかり教えるのが教師の役割となっている。
このように書くと,何かギスギスした感じになってしまうのだけれど,事実だからしょうがない。現実に,世の中にはオオカミやハイエナやキツネやタヌキなどがうろうろしている。そうでなければ,犯罪なと発生しようがないはずだし,ただの一人の警察官も必要なくなってしまうはずだ。事実を事実として認めない者のことを,世間は,「嘘つき」または「馬鹿」と呼ぶ。
もちろん,児童の中には「賢い子」もたくさんおり,そのような子は,本当はちゃんと判っているのだけれど,教師や同級生の手前,普通の子を装い,「仲良し」のようにふるまっていることが圧倒的に多い。もちろん,教師よりもはるかに優れた知能や様々な能力を有する児童が現実に非常に多数存在する。それを理解できないのは教師だけだ。そのような賢い子に対しては,何も教育をほどこす必要はない。すでに自力でやっていく能力を持ち,その手法を身につけている。また,そのような「賢い子」は,世間から警戒されないようにすべく,いかに自己を隠蔽し偽装するかを常に考え続け,そのように演じ続けている。そうしなければ世界から警戒されてしまい,損をしてしまうからだ。強いて言えば,そのような児童に対しては,できるだけハードな課題を与えるだけでよい。その課題をこなすかどうかは自己責任の問題なので,課題をこなさなくても特に指導する必要はない。本人から求めがあった場合にのみ,適切なアドバイスをすれば足りる。それが「あるべき教育」なのであって,教師のほうが圧倒的に優秀であることを前提とした現行のシステムは,その根本において虚偽であり空虚であると言わざるを得ない。本当に優秀な児童の前では,本当は,非常に多くの教師が無能者に近いくらい劣っているという明らかな事実を率直に認めるべきだ。とは言っても,能力的に劣る教師は,児童の優秀さを認識することもできないので,正確に自己評価できないという問題があり,また,教師を評価する役割を担っている組織等が基本的には徹底して無能または愚劣であることが普通なので(←本当に優秀な人材は,他人に対する評価といったタイプの仕事をしている暇など全くない。自己の求める仕事に没頭しているか,あるいは,あちこちからひっぱりだこになって多忙を極めている。),結局何も解決しようがないということもまた事実なのだが・・・
問題は,そのような賢い子ではない児童だ。徹底した訓練(または,場合によっては洗脳)が必要になるだろうと思われる。少なくとも微温的な情報倫理教育では何の効果もない。
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コメント
パーカーさん こんにちは。
「法を守る心、道徳観を強く植えつけることのほうがはるかに大切だ」というご意見には全く賛成です。当然の前提だと思います。
ある部分について才能があるということは,その者がすべての部面において優れているということを意味するものでないことは自明だと思われます。
人間としての基本的な部分をしっかりと養い育てるために家庭内教育と学校教育とが非常に大事な役割を担うべきであることについても全く同感です。
そして,それより以上に,「おとな」が犯罪行為を実行しても罪とならずに権力を握り続けたりお金儲けを続けたりすることができているという現実を少しでも解消することが大事だとも考えています。
もちろん,事柄によっては,たまたま日本国の法制度がそうなっているから違法行為となるけれども,別の法制度を採用している国では何ら問題にならないという事柄もあります。婚姻の問題や尊厳死の問題などは,社会生活の中において相当重要なものの一つだと思いますが,「制度」が異なるというだけの理由で適法行為になったり違法行為になったりしてしまうことがあるので,そのようなタイプの問題について,「何をどう考えるべきか」を教えることは,法律の専門家にとっても容易なことではないです。
しかし,汚職や背任や横領や脱税や産地偽装や詐欺や強姦など,誰が考えても違法行為だと理解することができる犯罪行為が横行し,ぜんぜん摘発されないで野放しになっているだけではなく,逆に「偉い人」がそれをかばってしまうような出来事が続出するようでは,誰も「正義」を信ずることはなくなってしまうし,「遵法精神」など馬鹿らしくて聴く気にもなれなくなってしまうでしょう。その点に関しては,むしろ子供のほうが純粋で敏感なのではないかと思います。
現実の社会の中において,「悪い手本」を駆逐し,「良い手本」が社会的に正当に評価されるような状況をつくっていく必要があります。そうでなければ,観念的・一般的に「法」と「正義」を教えることはできても,それは単なる「知識」に終わってしまうのではないかと思っております。
コメントありがとうございました。
投稿: 夏井高人 | 2009年6月12日 (金曜日) 09時40分
教師についてのご意見は理解できました。
あともう1点、私から児童(主に小学生)に関する教育について意見があります。
「才能のある子は才能を伸ばしてやる」
というご意見はもっともでありますが、
私は「才能のある子」の才能を潰すことを
心配するよりも、法を守る心、道徳観を強く
植えつけることのほうがはるかに大切だと考えます。
いじめのことを取り上げられていましたが、大人の場合は法が守ってくれますが、子供の場合は暴力を振るわれても法が守ってくれない場合があるでしょう。大人がやれば一生棒に振るようなことでも、子供の場合は許されているような現実があるのではないでしょうか。
これもまさに「子供を子供として扱う」ことの例だと思います。
私はこの辺の歪んだ“文化”を徹底的に改善していくことが大切だと思います。
“洗脳”という言葉を使われましたが、法を守る心、悪を嫌う心を徹底的に教え込む。道徳心を養うために、人のためになるような活動に大きな時間を割かせる。そうすれば“洗脳”は可能だと私は考えます。
ましてや過去とは異なり、犯罪を起こす手段、非道徳的好意を行う機会が飛躍的に増えています。早期から法教育、道徳教育を行う必要性も飛躍的に増えていると私は思います。
家庭でこのような教育が行われるのは当然です。ただ、“洗脳”のためには学校教育体制の協力も必要でしょう。
投稿: パーカー | 2009年6月11日 (木曜日) 23時40分
パーカーさん こんにちは。
教師の中にも賢い方がおられることはそのとおりですし,客観的な事実だと思います。
そのことを当然の前提とした上で,「子供を常に子供として扱うことが大きな間違いである」ということを述べています。
この記事はブログ記事に過ぎないものであり,論文ではありませんので,論理的な完全性を求められても困ります。文字で書いていないことでも論理的に当然の前提になっていることは,当然の前提として暗黙のうちに書かれているものとして読んでいただきたいと思います。すべからく「文」というものはそうしたものです。例外はありません。
さて,才能や資質は教育によって成長させたり抑制したりることは可能ではありますが,それを有していない者に対して原始的に発生させることは原理的に不可能です。生まれつき非常に優れた才能を持った者に対しては,その才能に関する限り,教師といえども敬意を表するべきでしょう。そして,それを殺してしまうような行為は,その才能を有している者にとっても社会全体の利益の観点からしても「悪」だと思っています。
どの社会,階層,職業,世代にも賢い人と賢くない人とがそれぞれ一定割合で必ず存在するので,当然のことです。そのことを当然の前提にした上で,とりわけ若い人の中には自分自身よりもはるかに優れた才能を有している者が多数いるかもしれないということは常に念頭に置いておく必要があると思います。少なくとも,彼らは自分よりも長く生きるのですし,社会のためにもこれから貢献してくれるかもしれない人々なので,そのことを冷静に理解して自分自身の身の処し方のようなものを考えるべきだろうと思います。例えば,そのような場合,自分自身よりもはるかに優れた才能を有する若い者に対しては,そのような者が自らの力でどんどん才能を伸ばしていけるように環境を整えてやり,黙って見守ってあげるというのがベターな対処の仕方というものではないでしょうか。
ちなみに,私自身は少しも賢くありません。自分の腹に収めていればそれで済むことをズケズケとブログに書いてしまいます。こういうタイプの人間のことを,人は「愚か者」と呼ぶのが普通です。私はそのように呼ばれても一向に差し支えありません。そのとおり「愚か者」なのだろうと自分でも思います。
コメントありがとうございました。
投稿: 夏井高人 | 2009年6月11日 (木曜日) 10時44分
児童に賢い子供がいるように、教師のなかにも賢い人がいるでしょう。
これを書かれたのは法律の専門家の方のようですが、教師のほうを一般化しすぎという印象を私は受けました。
投稿: パーカー | 2009年6月11日 (木曜日) 10時02分