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2008年12月23日 (火曜日)

音よりも概念

文部科学省及びそれを支援した教員団体が「ゆとり教育」なる根本的に誤った政策を打ち出したために何万人もの犠牲者が出ている。

非常に多くの大学で,「ゆとり教育」によって生み出されたレベルの低い学生に対する対処に困惑し,苦難の道を歩んでいる。教養がなさすぎて授業にならない大学が多数出てきている。このように大学を大学ではなくしてきてしまったのは,まさに「ゆとり教育」政策だったと断言して良い。

一般に,大学教育は高度な学問内容の習得を目的とするものだから,それに適した学生しか入学してはならない。つまり,誰でも入学できる学校であってはならないのだ。しかし,「ゆとり教育」が断行された結果,その最も大事な部分が崩壊してしまったのだ。

ちなみに,大学の中でもいわゆる上位校では学生のレベルが著しく低下しているわけではなく,逆に入試競争倍率が急激にあがり,高得点を得ないと合格しないところが増えている。つまり,大学における「二極化」が極端に進んでしまった。このような傾向は,もう止まらないだろうと思う。そして,その結果として次に起きる出来事は誰の目にも明らかだろう。

ところで,文部科学省は,「ゆとり教育」を見直す方針を固めたようだ。それは,正しいことだ。しかし,具体的な中身は,「ゆとり教育」以上に間違っているものを含んでいる。その代表例が英語教育だ。

 高校新指導要領 「脱ゆとり教育」をどう生かす(12月23日付・読売社説)
 Yomiuri Online: 2008年12月23日
 http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20081222-OYT1T00894.htm

このブログでも何度も書いてきたことだが,一般に,「言語」というものは「シンボル」と「意味内容」との組み合わせによって成り立っている。その組み合わせの法則を「文法」として認識・理解できることもあるが明確でない場合もある(←「言語」には常に「文法」が存在するとする説は誤り。)。

ある者が他人に伝えることができるのは,音や形や感触などによってかたちづくられている「シンボル」だけであり,その「意味内容」については受信者が勝手に想像するしかない。

人間の脳内の現象をそのまま伝達する方法が存在しないので,意味内容を直接に伝達する方法も存在しない。それゆえ,特定のシンボルから推測可能な意味内容を理解することのできない者の間では,会話は常に成立しない。

オーラル言語としての「英語」すなわちヒアリングや発音などを重視しすぎる教育政策は,この点についての理解を全く欠如しているというべきだろう。どんなに綺麗に発音できたとしても,意味内容を理解しているのでなければ,まさに「鸚鵡がえし」と同じことになる。人間を録音機にしてはならない。

そして,一般に,ある「シンボル」によって示される「意味内容(概念)」を豊富かつ正確に保有するためには,まず日本語による教養教育を徹底してやらないと駄目だ。そのためには読書などのためにいくら時間を費やしても足りない。そして,そのような「意味内容」をしっかりと習得するには,実は「写本」や「写経」のような書き写し作業が最も効果的だと信じている。

「写本」や「写経」という古典的というか中世的というか既に捨て去られてしまった手法が実は最も優れている。正確に書き写しながらその意味内容を考え,そして,分からなければ関連書籍を読み,辞書にあたる。その繰り返し(読書百遍)に勝る手法はない。このことは司法試験のような高度な理解と非常に多くの知識が要求される勉強でも同じだ。

英語の会話をするためのヒアリングやスピーチなどは,大人になってからでも十分にできる。中身がしっかりしていて豊かな教養を有する者であり,かつ,音楽的感覚の優れている者でありさえすれば,大人になってからでも1年~2年くらいの留学体験をするだけで,立派に英会話をすることができるようになると確信をもって断言することができる。

反対に,3歳~5歳くらいの時期に行われてきた「英才教育」なるものが本当に功を奏したのかというと,もともと才能のあった児童についてはその児童を発見・発掘するという効果はあったと思うが,普通の児童については全く意味がなく,単にお金を浪費しただけに過ぎないことが明らかになっているだろうと思う。

真の教育を実施するためには,教育を受ける者が真に教育を渇望しているときでないと効果をあげることができない。教育を受けたくない者に提供されるのであれば,それは監獄内での生活のようなものであり,場合によって暴力に近いものだ。

日本では,機械的かつ段階的に教育を実施するのが正しいと考える人が多い。ピアジェの心理学に悪影響を受けた人々がその原因をつくったのだろう。たしかに,初等教育ではそのように言えるかもしれない。しかし,中等教育以降の段階では,まったく当てはまらない。

そして,本来,学問は自分自身でするものであり,教員から教えられるものではない。

しかし,その大前提として,豊かな教養がないとどうにもならないということは事実だ。もし,世間で指導的な立場にたちたいと思うのであれば,必死になって教養を溜め込み,考え続けることが大事だ。

受験競争それ自体が「悪」であるのか「善」であるのかは知らないが,何も言われなくても自分からどんどん読書し,豊富な教養を蓄積し,日々深く考え続けるようなタイプの子供であれば何も問題はない。そのような子供は自分の力で生きていけるし,教員はそのような自己学習を支援するだけで良い。しかし,そうでない子供については,残念なことではあるが,受験競争でもなければ真面目に勉強などしないことがあるだろうから,やむを得ない「必要悪」としてとらえるしかないだろうと思う。競争心が怠惰な心を抑えこんでくれることを期待できる場合がある。

加えて,「サラリーマンになることが大事」だという暗黙の前提は捨てるべきだろう。ヤクザやマフィアのような違法行為を職業とする者でない限り,職業に貴賎はない。だから,将来サラリーマンになることだけを前提に教育をするのはやめてほしい。

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