デジタル通信の発達はプライバシーを消滅させることになるか?
海外出張すると,出張先の国の言葉で書かれた新聞しか手に入らないのが普通だ。例外的に日本語で書かれた数日前の日本の新聞を読むことができる場合もあるけれども,基本的には現地の新聞だけ。もちろん,ネットで検索すれば日本語の新聞記事を検索することができる。しかし,PCがない場所でも読めるのは印刷された新聞ということになるので,苦労しながら現地の新聞を読むことになる。そんなことをやっている間に,定期的に米国の新聞などをネット上で読むのが習慣のようになってきてしまった。今朝,New York Timesを読んでいたら。面白い記事を見つけた。
You're Leaving a Digital Trail. What About Privacy?
New York Times: November 29, 2008
http://www.nytimes.com/2008/11/30/business/30privacy.html?pagewanted=1&_r=1&ref=business
この記事に書かれていることはとても大事なことばかりのように思う。
例えば,スマートフォンがとても便利な道具であることは誰も否定しないだろう。その利用者は,単に電話機として利用することができるだけではなく,音楽や映画をダウンロードして楽しみ,GPSの機能により位置情報を得ることもできる。Google検索を使うこともできる。
しかし,その反面において,電話したりコンテンツをダウンロードしたりする度にGPSによって自己の位置情報を取得されてしまっていることも事実だし,Googleの様々な機能を組み合わせて使うによって,結果的に利用者のプライバシーが剥ぎ取られてしまう結果となることもある。
要するに,個々のパーツを観察してみるとプライバシー侵害的であるとは断定できないにしても,複数のパーツを組み合わせて利用することが強烈にプライバシー侵害的状況を作り出してしまうのだ。
この記事は,このようなタイプの問題について,分かりやすく解説している。
この記事を読んでみて思うことは,日本国の現行の個人情報保護法のシステムでは対応できない問題が多すぎるということだ。
個々のパーツについては,それぞれMicrosoftやGoogleやAppleといった企業が存在するから,それらの企業を「個人情報取扱事業者」として理解することは可能だろう。しかし,問題は,利用者がそれらのパーツを組み合わせて使った場合に,結果的にプライバシー侵害的な状況が発生してしまうといったタイプの問題だ。この場合,特定の事業者が個人情報保護法に違反しているとか違反していないとか言ってみても問題の解決につながらない。
おそらく,事業者の義務として個人情報の保護を考えるだけでは足りず,ある類型に属する,デバイス,サービス,ビジネスなどについて,誰が事業者であるのかを問わず,違法または侵害的として理解し,必要な対処ができるような法的仕組みを構築することが必要なのではないかと思う。
このようなタイプの問題は,実は,欧米でも基本的には変わらない。なぜなら,欧米における法規制は,日本国と異なるものであるとはいえ,何か違反があったら人間が経営する企業を相手にして一定の規制をしたり処罰したりするという点では日本の場合と何ら変わりがないからだ。
私がここで言っているのは,誰か人間相手に規制をしたり処罰したりするというのではなく,ある「現象」が発生した場合には,その現象が生ずる原因が企業の側にある場合だけではなく専ら利用者の利用の仕方にある場合や,誰がその現象を発生させたのか全くわからないような場合を含め,「人」に対してではなく「現象」に対する対応ができるような法的仕組みが必要ということなのだ。
これは,これまでの西欧の法の歴史の中ではあまり考えられてこなかったことだろうと思う。我々が認識している「法」の世界は,人間が人間に対して訴えかけるものとして構築されているのであり,それゆえに認識(故意,過失)や責任能力などが常に議論の要素となってきた。人間とはかかわりのない単なる「現象」は,法的対応のための対象とはならない。
しかし,情報法の未来は,「人」というプレイヤーを全く考慮しない場合でも法として機能するような「何か」を構築し続けることにならざるを得ないだろう。ただし,現在の法哲学の基本を離れて何かを構築してみても誰も理解できないだろうから,それを人間と関係した出来事であるかのように見せかけるための高度な法的レトリックのようなものは必要となるかもしれない。
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